を」
愛子は少しうつむきかげんに黙ってしまった、こういう態度を取った時の愛子のしぶとさ[#「しぶとさ」に傍点]を葉子はよく知っていた。葉子の神経はびり[#「びり」に傍点]びりと緊張して来た。
「持って来てお見せ」
そう厳格にいいながら、葉子はそこに岡のいる事も意識の中に加えていた。愛子は執拗《しつよう》に黙ったまますわっていた。しかし葉子がもう一度催促の言葉を出そうとすると、その瞬間に愛子はつ[#「つ」に傍点]と立ち上がって部屋《へや》を出て行った。
葉子はそのすきに岡の顔を見た。それはまた無垢《むく》童貞の青年が不思議な戦慄《せんりつ》を胸の中に感じて、反感を催すか、ひき付けられるかしないではいられないような目で岡を見た。岡は少女のように顔を赤めて、葉子の視線を受けきれないでひとみをたじろがしつつ目を伏せてしまった。葉子はいつまでもそのデリケートな横顔を注視《みつめ》つづけた。岡は唾《つば》を飲みこむのもはばかるような様子をしていた。
「岡さん」
そう葉子に呼ばれて、岡はやむを得ずおずおず頭を上げた。葉子は今度はなじるようにその若々しい上品な岡を見つめていた。
そこに愛子が白い西洋封筒を持って帰って来た。葉子は岡にそれを見せつけるように取り上げて、取るにも足らぬ軽いものでも扱うように飛び飛びに読んでみた。それにはただあたりまえな事だけが書いてあった。しばらく目で見た二人《ふたり》の大きくなって変わったのには驚いたとか、せっかく寄って作ってくれたごちそうをすっかり[#「すっかり」に傍点]賞味しないうちに帰ったのは残念だが、自分の性分《しょうぶん》としてはあの上我慢ができなかったのだから許してくれとか、人間は他人の見よう見まねで育って行ったのではだめだから、たといどんな境遇にいても自分の見識を失ってはいけないとか、二人《ふたり》には倉地という人間だけはどうかして近づけさせたくないと思うとか、そして最後に、愛子さんは詠歌がなかなか上手《じょうず》だったがこのごろできるか、できるならそれを見せてほしい、軍隊生活の乾燥無味なのには堪《た》えられないからとしてあった。そしてあて名は愛子、貞世の二人になっていた。
「ばかじゃないの愛さん、あなたこのお手紙でいい気になって、下手《へた》くそなぬた[#「ぬた」に傍点]でもお見せ申したんでしょう……いい気なものね……この御本と一緒にもお手紙が来たはずね」
愛子はすぐまた立とうとした。しかし葉子はそうはさせなかった。
「一本一本お手紙を取りに行ったり帰ったりしたんじゃ日が暮れますわ。……日が暮れるといえばもう暗くなったわ。貞《さあ》ちゃんはまた何をしているだろう……あなた早く呼びに行って一緒にお夕飯のしたくをしてちょうだい」
愛子はそこにある書物をひとかかえに胸に抱いて、うつむくと愛らしく二重《ふたえ》になる頤《おとがい》で押えて座を立って行った。それがいかにもしおしおと、細かい挙動の一つ一つで岡に哀訴するように見れば見なされた。「互いに見かわすような事をしてみるがいい」そう葉子は心の中で二人《ふたり》をたしなめながら、二人に気を配った。岡も愛子も申し合わしたように瞥視《べっし》もし合わなかった。けれども葉子は二人がせめては目だけでも慰め合いたい願いに胸を震わしているのをはっきり[#「はっきり」に傍点]と感ずるように思った。葉子の心はおぞましくも苦々《にがにが》しい猜疑《さいぎ》のために苦しんだ。若さと若さとが互いにきびしく求め合って、葉子などをやすやすと袖《そで》にするまでにその情炎は嵩《こう》じていると思うと耐えられなかった。葉子はしいて自分を押ししずめるために、帯の間から煙草入《たばこい》れを取り出してゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]煙を吹いた。煙管《きせる》の先が端《はし》なく火鉢《ひばち》にかざした岡の指先に触れると電気のようなものが葉子に伝わるのを覚えた。若さ……若さ……。
そこには二人の間にしばらくぎごち[#「ぎごち」に傍点]ない沈黙が続いた。岡が何をいえば愛子は泣いたんだろう。愛子は何を泣いて岡に訴えていたのだろう。葉子が数えきれぬほど経験した幾多の恋の場面の中から、激情的ないろいろの光景がつぎつぎに頭の中に描かれるのだった。もうそうした年齢が岡にも愛子にも来ているのだ。それに不思議はない。しかしあれほど葉子にあこがれおぼれて、いわば恋以上の恋ともいうべきものを崇拝的にささげていた岡が、あの純直な上品なそしてきわめて内気な岡が、見る見る葉子の把持《はじ》から離れて、人もあろうに愛子――妹の愛子のほうに移って行こうとしているらしいのを見なければならないのはなんという事だろう。愛子の涙――それは察する事ができる。愛子はきっと涙ながらに葉子と倉地との間にこのごろ募
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