たかったのだ。彼女は不意に岡の前に現われようために裏階子《うらばしご》からそっ[#「そっ」に傍点]と登って行った。そして襖《ふすま》をあけるとそこに岡と愛子だけがいた。貞世は苔香園《たいこうえん》にでも行って遊んでいるのかそこには姿を見せなかった。
 岡は詩集らしいものを開いて見ていた。そこにはなお二三冊の書物が散らばっていた。愛子は縁側に出て手欄《てすり》から庭を見おろしていた。しかし葉子は不思議な本能から、階子段《はしごだん》に足をかけたころには、二人は決して今のような位置に、今のような態度でいたのではないという事を直覚していた。二人が一人《ひとり》は本を読み、一人が縁に出ているのは、いかにも自然でありながら非常に不自然だった。
 突然――それはほんとうに突然どこから飛び込んで来たのか知れない不快の念のために葉子の胸はかきむしられた。岡は葉子の姿を見ると、わざっと寛《くつろ》がせていたような姿勢を急に正して、読みふけっていたらしく見せた詩集をあまりに惜しげもなく閉じてしまった。そしていつもより少しなれなれしく挨拶《あいさつ》した。愛子は縁側から静かにこっちを振り向いて平生《ふだん》と少しも変わらない態度で、柔順に無表情に縁板の上にちょっと膝《ひざ》をついて挨拶した。しかしその沈着にも係わらず、葉子は愛子が今まで涙を目にためていたのをつきとめた。岡も愛子も明らかに葉子の顔や髪の様子の変わったのに気づいていないくらい心に余裕のないのが明らかだった。
 「貞《さあ》ちゃんは」
 と葉子は立ったままで尋ねてみた。二人《ふたり》は思わずあわてて答えようとしたが、岡は愛子をぬすみ見るようにして控えた。
 「隣の庭に花を買いに行ってもらいましたの」
 そう愛子が少し下を向いて髷《まげ》だけを葉子に見えるようにして素直《すなお》に答えた。「ふゝん」と葉子は腹の中でせせら笑った。そして始めてそこにすわって、じっ[#「じっ」に傍点]と岡の目を見つめながら、
 「何? 読んでいらしったのは」
 といって、そこにある四六細型《しろくほそがた》の美しい表装の書物を取り上げて見た。黒髪を乱した妖艶《ようえん》な女の頭、矢で貫かれた心臓、その心臓からぽたぽた落ちる血のしたたりがおのずから字になったように図案された「乱れ髪」という標題――文字に親しむ事の大きらいな葉子もうわさで聞いていた有名な鳳晶子《ほうあきこ》[#底本ではルビが「おおとりあきこ」]の詩集だった。そこには「明星《みょうじょう》」という文芸雑誌だの、春雨《しゅんう》の「無花果《いちじく》」だの、兆民居士《ちょうみんこじ》の「一|年有半《ねんゆうはん》」だのという新刊の書物も散らばっていた。
 「まあ岡さんもなかなかのロマンティストね、こんなものを愛読なさるの」
 と葉子は少し皮肉なものを口じりに見せながら尋ねてみた。岡は静かな調子で訂正するように、
 「それは愛子さんのです。わたし今ちょっと拝見しただけです」
 「これは」
 といって葉子は今度は「一年有半」を取り上げた。
 「それは岡さんがきょう貸してくださいましたの。わたしわかりそうもありませんわ」
 愛子は姉の毒舌をあらかじめ防ごうとするように。
 「へえ、それじゃ岡さん、あなたはまたたいしたリアリストね」
 葉子は愛子を眼中にもおかないふうでこういった。去年の下半期の思想界を震憾《しんかん》したようなこの書物と続編とは倉地の貧しい書架の中にもあったのだ。そして葉子はおもしろく思いながらその中を時々拾い読みしていたのだった。
 「なんだかわたしとはすっかり[#「すっかり」に傍点]違った世界を見るようでいながら、自分の心持ちが残らずいってあるようでもあるんで……わたしそれが好きなんです。リアリストというわけではありませんけれども……」
 「でもこの本の皮肉は少しやせ我慢ね。あなたのような方《かた》にはちょっと不似合いですわ」
 「そうでしょうか」
 岡は何とはなく今にでも腫《は》れ物《もの》にさわられるかのようにそわそわしていた。会話は少しもいつものようにははずまなかった。葉子はいらいらしながらもそれを顔には見せないで今度は愛子のほうに槍先《やりさき》を向けた。
 「愛さんお前こんな本をいつお買いだったの」
 といってみると、愛子は少しためらっている様子だったが、すぐに素直な落ち着きを見せて、
 「買ったんじゃないんですの。古藤さんが送ってくださいましたの」
 といった。葉子はさすがに驚いた。古藤はあの会食の晩、中座したっきり、この家には足踏みもしなかったのに……。葉子は少し激しい言葉になった。
 「なんだってまたこんな本を送っておよこしなさったんだろう。あなたお手紙でも上げたのね」
 「えゝ、……くださいましたから」
 「どんなお手紙
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