そのほうを向かずに、目を畳の上に伏せてじっ[#「じっ」に傍点]と千里も離れた事でも考えている様子だった。
 「わたしの意気地《いくじ》のないのが何よりもいけないんです。親類の者たちはなんといってもわたしを実業の方面に入れて父の事業を嗣《つ》がせようとするんです。それはたぶんほんとうにいい事なんでしょう。けれどもわたしにはどうしてもそういう事がわからないから困ります。少しでもわかれば、どうせこんなに病身で何もできませんから、母はじめみんなのいうことをききたいんですけれども……わたしは時々|乞食《こじき》にでもなってしまいたいような気がします。みんなの主人思いな目で見つめられていると、わたしはみんなに済まなくなって、なぜ自分みたいな屑《くず》な人間を惜しんでいてくれるのだろうとよくそう思います……こんな事今までだれにもいいはしませんけれども。突然日本に帰って来たりなぞしてからわたしは内々監視までされるようになりました。……わたしのような家に生まれると友だちというものは一人《ひとり》もできませんし、みんなとは表面だけで物をいっていなければならないんですから……心がさびしくってしかたがありません」
 そういって岡はすがるように葉子を見やった。岡が少し震えを帯びた、よごれっ気《け》の塵《ちり》ほどもない声の調子を落としてしんみり[#「しんみり」に傍点]と物をいう様子にはおのずからな気高《けだか》いさびしみがあった。戸障子をきしませながら雪を吹きまく戸外の荒々しい自然の姿に比べてはことさらそれが目立った。葉子には岡のような消極的な心持ちは少しもわからなかった。しかしあれでいて、米国くんだり[#「くんだり」に傍点]から乗って行った船で帰って来る所なぞには、粘り強い意力が潜んでいるようにも思えた。平凡な青年ならできてもできなくとも周囲のものにおだてあげられれば疑いもせずに父の遺業を嗣《つ》ぐまねをして喜んでいるだろう。それがどうしてもできないという所にもどこか違った所があるのではないか。葉子はそう思うと何の理解もなくこの青年を取り巻いてただわいわい騒ぎ立てている人たちがばかばかしくも見えた。それにしてもなぜもっとはき[#「はき」に傍点]はきとそんな下らない障害ぐらい打ち破ってしまわないのだろう。自分ならその財産を使ってから、「こうすればいいのかい」とでもいって、まわりで世話を焼いた人間たちを胸のすき切るまで思い存分笑ってやるのに。そう思うと岡の煮え切らないような態度が歯がゆくもあった。しかしなんといっても抱きしめたいほど可憐《かれん》なのは岡の繊美なさびしそうな姿だった。岡は上手《じょうず》に入れられた甘露《かんろ》をすすり終わった茶《ちゃ》わんを手の先に据《す》えて綿密にその作りを賞翫《しょうがん》していた。
 「お覚えになるようなものじゃございません事よ」
 岡は悪い事でもしていたように顔を赤くしてそれを下においた。彼はいいかげんな世辞はいえないらしかった。
 岡は始めて来た家に長居《ながい》するのは失礼だと来た時から思っていて、機会あるごとに座を立とうとするらしかったが、葉子はそういう岡の遠慮に感づけば感づくほど巧みにもすべての機会を岡に与えなかった。
 「もう少しお待ちになると雪が小降りになりますわ。今、こないだインドから来た紅茶を入れてみますから召し上がってみてちょうだい。ふだんいいものを召し上がりつけていらっしゃるんだから、鑑定をしていただきますわ。ちょっと、……ほんのちょっと待っていらしってちょうだいよ」
 そういうふうにいって岡を引き止めた。始めの間こそ倉地に対してのようにはなつかなかった貞世もだんだんと岡と口をきくようになって、しまいには岡の穏やかな問いに対して思いのままをかわいらしく語って聞かせたり、話題に窮して岡が黙ってしまうと貞世のほうから無邪気な事を聞きただして、岡をほほえましたりした。なんといっても岡は美しい三人の姉妹が(そのうち愛子だけは他の二人《ふたり》とは全く違った態度で)心をこめて親しんで来るその好意には敵し兼ねて見えた。盛んに火を起こした暖かい部屋《へや》の中の空気にこもる若い女たちの髪からとも、ふところからとも、膚からとも知れぬ柔軟な香《かお》りだけでも去りがたい思いをさせたに違いなかった。いつのまにか岡はすっかり[#「すっかり」に傍点]腰を落ち着けて、いいようなく快く胸の中のわだかまり[#「わだかまり」に傍点]を一掃したように見えた。
 それからというもの、岡は美人屋敷とうわさされる葉子の隠れ家《が》におりおり出入りするようになった。倉地とも顔を合わせて、互いに快く船の中での思い出し話などをした。岡の目の上には葉子の目が義眼《いれめ》されていた。葉子のよしと見るものは岡もよしと見た。葉子の憎むものは岡
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