から音曲の音がくぐもるように聞こえて来たり、苔香園《たいこうえん》から薔薇《ばら》の香《かお》りが風の具合でほんのり[#「ほんのり」に傍点]とにおって来たりした。ここにこうして倉地と住み続ける喜ばしい期待はひと向きに葉子の心を奪ってしまった。
平凡な人妻となり、子を生み、葉子の姿を魔物か何かのように冷笑《あざわら》おうとする、葉子の旧友たちに対して、かつて葉子がいだいていた火のような憤りの心、腐っても死んでもあんなまねはして見せるものかと誓うように心であざけったその葉子は、洋行前の自分というものをどこかに置き忘れたように、そんな事は思いも出さないで、旧友たちの通《とお》って来た道筋にひた走りに走り込もうとしていた。
二八
こんな夢のような楽しさがたわいもなく一週間ほどはなんの故障もひき起こさずに続いた。歓楽に耽溺《たんでき》しやすい、従っていつでも現在をいちばん楽しく過ごすのを生まれながら本能としている葉子は、こんな有頂天《うちょうてん》な境界《きょうがい》から一歩でも踏み出す事を極端に憎んだ。葉子が帰ってから一度しか会う事のできない妹たちが、休日にかけてしきりに遊びに来たいと訴え来るのを、病気だとか、家の中が片づかないとか、口実を設けて拒んでしまった。木村からも古藤の所か五十川《いそがわ》女史の所かにあててたよりが来ているには相違ないと思ったけれども、五十川女史はもとより古藤の所にさえ住所が知らしてないので、それを回送してよこす事もできないのを葉子は知っていた。定子――この名は時々葉子の心を未練がましくさせないではなかった。しかし葉子はいつでも思い捨てるようにその名を心の中から振り落とそうと努めた。倉地の妻の事は何かの拍子《ひょうし》につけて心を打った。この瞬間だけは葉子の胸は呼吸もできないくらい引き締められた。それでも葉子は現在目前の歓楽をそんな心痛で破らせまいとした。そしてそのためには倉地にあらん限りの媚《こ》びと親切とをささげて、倉地から同じ程度の愛撫《あいぶ》をむさぼろうとした。そうする事が自然にこの難題に解決をつける導火線《みちび》にもなると思った。
倉地も葉子に譲らないほどの執着をもって葉子がささげる杯から歓楽を飲み飽きようとするらしかった。不休の活動を命《いのち》としているような倉地ではあったけれども、この家に移って来てから、家を明けるような事は一度もなかった。それは倉地自身が告白するように破天荒《はてんこう》な事だったらしい。二人《ふたり》は、初めて恋を知った少年少女が世間《せけん》も義理も忘れ果てて、生命《いのち》さえ忘れ果てて肉体を破ってまでも魂を一つに溶かしたいとあせる、それと同じ熱情をささげ合って互い互いを楽しんだ。楽しんだというよりも苦しんだ。その苦しみを楽しんだ。倉地はこの家に移って以来新聞も配達させなかった。郵便だけは移転通知をして置いたので倉地の手もとに届いたけれども、倉地はその表書きさえ目を通そうとはしなかった。毎日の郵便はつやの手によって束《たば》にされて、葉子が自分の部屋《へや》に定めた玄関わきの六畳の違《ちが》い棚《だな》にむなしく積み重ねられた。葉子の手もとには妹たちからのほかには一枚のはがきさえ来なかった。それほど世間から自分たちを切り放しているのを二人《ふたり》とも苦痛とは思わなかった。苦痛どころではない、それが幸いであり誇りであった。門には「木村」とだけ書いた小さい門札《もんさつ》が出してあった。木村という平凡な姓は二人の楽しい巣を世間にあばくような事はないと倉地がいい出したのだった。
しかしこんな生活を倉地に長い間要求するのは無理だということを葉子はついに感づかねばならなかった。ある夕食の後《のち》倉地は二階の一|間《ま》で葉子を力強く膝《ひざ》の上に抱き取って、甘い私語《ささやき》を取りかわしていた時、葉子が情に激して倉地に与えた熱い接吻《せっぷん》の後にすぐ、倉地が思わず出たあくびをじっ[#「じっ」に傍点]とかみ殺したのをいち早く見て取ると、葉子はこの種の歓楽がすでに峠を越した事を知った。その夜は葉子には不幸な一夜だった。かろうじて築き上げた永遠の城塞《じょうさい》が、はかなくも瞬時の蜃気楼《しんきろう》のように見る見るくずれて行くのを感じて、倉地の胸に抱かれながらほとんど一夜を眠らずに通してしまった。
それでも翌日になると葉子は快活になっていた。ことさら快活に振る舞おうとしていたには違いないけれども、葉子の倉地に対する溺愛《できあい》は葉子をしてほとんど自然に近い容易さをもってそれをさせるに充分だった。
「きょうはわたしの部屋《へや》でおもしろい事して遊びましょう。いらっしゃいな」
そういって少女が少女を誘うように牡牛《おうし》のように大きな倉
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