地《ごこち》でかいでいるようだったが、やがて物たるげに、
 「もう起きたんか。何時《なんじ》だな」
 といった。まるで大きな子供のようなその無邪気さ。葉子は思わず自分の頬《ほお》を倉地のにすりつけると、寝起きの倉地の頬は火のように熱く感ぜられた。
 「もう八時。……お起きにならないと横浜のほうがおそくなるわ」
 倉地はやはり物たるげに、袖口《そでぐち》からにょきん[#「にょきん」に傍点]と現われ出た太い腕を延べて、短い散切《ざんぎ》り頭をごしごしとかき回しながら、
 「横浜?……横浜にはもう用はないわい。いつ首になるか知れないおれがこの上の御奉公をしてたまるか。これもみんなお前のお陰だぞ。業《ごう》つくばりめ」
 といっていきなり[#「いきなり」に傍点]葉子の首筋を腕にまいて自分の胸に押しつけた。
 しばらくして倉地は寝床を出たが、昨夜の事などはけろり[#「けろり」に傍点]と忘れてしまったように平気でいた。二人《ふたり》が始めて離れ離《ばな》れに寝たのにも一言《ひとこと》もいわないのがかすかに葉子を物足らなく思わせたけれども、葉子は胸が広々としてなんという事もなく喜ばしくってたまらなかった。で、倉地を残して台所におりた。自分で自分の食べるものを料理するという事にもかつてない物珍しさとうれしさとを感じた。
 畳一|畳《じょう》がた日のさしこむ茶の間の六畳で二人は朝餉《あさげ》の膳《ぜん》に向かった。かつては葉山《はやま》で木部と二人でこうした楽しい膳に向かった事もあったが、その時の心持ちと今の心持ちとを比較する事もできないと葉子は思った。木部は自分でのこのこと台所まで出かけて来て、長い自炊の経験などを得意げに話して聞かせながら、自分で米をといだり、火をたきつけたりした。その当座は葉子もそれを楽しいと思わないではなかった。しかししばらくのうちにそんな事をする木部の心持ちがさもしくも思われて来た。おまけに木部は一日一日とものぐさになって、自分では手を下しもせずに、邪魔になる所に突っ立ったままさしずがましい事をいったり、葉子には何らの感興も起こさせない長詩を例の御自慢の美しい声で朗々と吟じたりした。葉子はそんな目にあうと軽蔑《けいべつ》しきった冷ややかなひとみでじろり[#「じろり」に傍点]と見返してやりたいような気になった。倉地は始めからそんな事はてんで[#「てんで」に傍点]しなかった。大きな駄々児《だだっこ》のように、顔を洗うといきなり[#「いきなり」に傍点]膳《ぜん》の前にあぐらをかいて、葉子が作って出したものを片端からむしゃむしゃときれいに片づけて行った。これが木部だったら、出す物の一つ一つに知ったかぶりの講釈をつけて、葉子の腕まえを感傷的にほめちぎって、かなりたくさんを食わずに残してしまうだろう。そう思いながら葉子は目でなでさするようにして倉地が一心に箸《はし》を動かすのを見守らずにはいられなかった。
 やがて箸と茶わんとをからり[#「からり」に傍点]となげ捨てると、倉地は所在なさそうに葉巻をふかしてしばらくそこらをながめ回していたが、いきなり[#「いきなり」に傍点]立ち上がって尻《しり》っぱしょり[#「ぱしょり」に傍点]をしながら裸足《はだし》のまま庭に飛んで降りた。そしてハーキュリーズが針仕事でもするようなぶきっちょう[#「ぶきっちょう」に傍点]な様子で、狭い庭を歩き回りながら片すみから片づけ出した。まだびしゃ[#「びしゃ」に傍点]びしゃするような土の上に大きな足跡が縦横にしるされた。まだ枯れ果てない菊や萩《はぎ》などが雑草と一緒くたに情けも容赦もなく根こぎにされるのを見るとさすがの葉子もはらはらした。そして縁ぎわにしゃがんで柱にもたれながら、時にはあまりのおかしさに高く声をあげて笑いこけずにはいられなかった。
 倉地は少し働き疲れると苔香園のほうをうかがったり、台所のほうに気を配ったりしておいて、大急ぎで葉子のいる所に寄って来た。そして泥《どろ》になった手を後ろに回して、上体を前に折り曲げて、葉子の鼻の先に自分の顔を突き出してお壺口《つぼぐち》をした。葉子もいたずららしく周囲に目を配ってその顔を両手にはさみながら自分の口びるを与えてやった。倉地は勇み立つようにしてまた土の上にしゃがみこんだ。
 倉地はこうして一日働き続けた。日がかげるころになって葉子も一緒に庭に出てみた。ただ乱暴な、しょう事なしのいたずら仕事とのみ思われたものが、片づいてみるとどこからどこまで要領を得ているのを発見するのだった。葉子が気にしていた便所の屋根の前には、庭のすみにあった椎《しい》の木が移してあったりした。玄関前の両側の花壇の牡丹《ぼたん》には、藁《わら》で器用に霜がこいさえしつらえてあった。
 こんなさびしい杉森の中の家にも、時々紅葉館のほう
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