まった自分が自分ながら不思議なくらいだった。どんなに情に激した時でもたいていは自分を見失うような事はしないで通して来た葉子にはそれがひどく恥ずかしかった。船の中にいる時にヒステリーになったのではないかと疑った事が二三度ある――それがほんとうだったのではないかしらんとも思われた。そして夜着にかけた洗い立てのキャリコの裏の冷え冷えするのをふくよかな頤《おとがい》に感じながら心の中で独語《ひとりご》ちた。
「何をわたしは考えていたんだろう。どうかして心が狂ってしまったんだ。こんな事はついぞない事だのに」
そういいながら葉子は肩だけ起き直って、枕《まくら》もとの水を手さぐりでしたたか飲みほした。氷のように冷えきった水が喉《のど》もとを静かに流れ下って胃の腑《ふ》に広がるまではっきり[#「はっきり」に傍点]と感じられた。酒も飲まないのだけれども、酔後の水と同様に、胃の腑に味覚ができて舌の知らない味を味わい得たと思うほど快く感じた。それほど胸の中は熱を持っていたに違いない。けれども足のほうは反対に恐ろしく冷えを感じた。少しその位置を動かすと白さをそのままな寒い感じがシーツから逼《せま》って来るのだった。葉子はまたきびしく倉地の胸を思った。それは寒さと愛着とから葉子を追い立てて二階に走らせようとするほどだった。しかし葉子はすでにそれをじっ[#「じっ」に傍点]とこらえるだけの冷静さを回復していた。倉地の妻に対する処置は昨夜のようであっては手ぎわよくは成し遂げられぬ。もっと冷たい知恵に力を借りなければならぬ――こう思い定めながら暁の白《しら》むのを知らずにまた眠りに誘われて行った。
翌日葉子はそれでも倉地より先に目をさまして手早く着がえをした。自分で板戸を繰りあけて見ると、縁先には、枯れた花壇の草や灌木《かんぼく》が風のために吹き乱された小庭があって、その先は、杉《すぎ》、松、その他の喬木《きょうぼく》の茂みを隔てて苔香園《たいこうえん》の手広い庭が見やられていた。きのうまでいた双鶴館《そうかくかん》の周囲とは全く違った、同じ東京の内とは思われないような静かな鄙《ひな》びた自然の姿が葉子の目の前には見渡された。まだ晴れきらない狭霧《さぎり》をこめた空気を通して、杉の葉越しにさしこむ朝の日の光が、雨にしっとり[#「しっとり」に傍点]と潤った庭の黒土の上に、まっすぐな杉の幹を棒縞《
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