で出るが早いか倉地さんの所にいらっしゃるようになったんだそうですからそのはずでもありますが、ちっともすれていらっしゃらないでいて、気もおつきにはなるし、しとやかでもあり、……」
 ある晩|双鶴館《そうかくかん》の女将《おかみ》が話に来て四方山《よもやま》のうわさのついでに倉地の妻の様子を語ったその言葉は、はっきり[#「はっきり」に傍点]と葉子の心に焼きついていた。葉子はそれが優《すぐ》れた人であると聞かされれば聞かされるほど妬《ねた》ましさを増すのだった。自分の目の前には大きな障害物がまっ暗に立ちふさがっているのを感じた。嫌悪《けんお》の情にかきむしられて前後の事も考えずに別れてしまったのではあったけれども、仮にも恋らしいものを感じた木部に対して葉子がいだく不思議な情緒、――ふだんは何事もなかったように忘れ果ててはいるものの、思いも寄らないきっかけ[#「きっかけ」に傍点]にふと胸を引き締めて巻き起こって来る不思議な情緒、――一種の絶望的なノスタルジア――それを葉子は倉地にも倉地の妻にも寄せて考えてみる事のできる不幸を持っていた。また自分の生んだ子供に対する執着。それを男も女も同じ程度にきびしく感ずるものかどうかは知らない。しかしながら葉子自身の実感からいうと、なんといってもたとえようもなくその愛着は深かった。葉子は定子を見ると知らぬ間《ま》に木部に対して恋に等しいような強い感情を動かしているのに気がつく事がしばしばだった。木部との愛着の結果定子が生まれるようになったのではなく、定子というものがこの世に生まれ出るために、木部と葉子とは愛着のきずなにつながれたのだとさえ考えられもした。葉子はまた自分の父がどれほど葉子を溺愛《できあい》してくれたかをも思ってみた。葉子の経験からいうと、両親共いなくなってしまった今、慕わしさなつかしさを余計感じさせるものは、格別これといって情愛の徴《しるし》を見せはしなかったが、始終|軟《やわ》らかい目色で自分たちを見守ってくれていた父のほうだった。それから思うと男というものも自分の生ませた子供に対しては女に譲らぬ執着を持ちうるものに相違ない。こんな過去の甘い回想までが今は葉子の心をむちうつ笞《しもと》となった。しかも倉地の妻と子とはこの東京にちゃん[#「ちゃん」に傍点]と住んでいる。倉地は毎日のようにその人たちにあっているのに相違ないのだ
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