子の敏捷《びんしょう》さにはかなわなかった。そして階子段《はしごだん》の降り口の所でつやに食い止められてしまった。葉子はつやの肩に身を投げかけながらおいおいと声を立てて子供のように泣き沈んでしまった。
 幾時間かの人事不省の後に意識がはっきり[#「はっきり」に傍点]してみると、葉子は愛子とのいきさつ[#「いきさつ」に傍点]をただ悪夢のように思い出すばかりだった。しかもそれは事実に違いない。枕《まくら》もとの障子には葉子の手のさし込まれた孔《あな》が、大きく破れたまま残っている。入院のその日から、葉子の名は口さがない婦人患者の口の端《は》にうるさくのぼっているに違いない。それを思うと一時でもそこにじっ[#「じっ」に傍点]としているのが、堪《た》えられない事だった。葉子はすぐほかの病院に移ろうと思ってつやにいいつけた。しかしつやはどうしてもそれを承知しなかった。自分が身に引き受けて看護するから、ぜひともこの病院で手術を受けてもらいたいとつやはいい張った。葉子から暇を出されながら、妙に葉子に心を引きつけられているらしい姿を見ると、この場合葉子はつやにしみじみとした愛を感じた。清潔な血が細いしなやかな血管を滞りなく流れ回っているような、すべすべと健康らしい、浅黒いつやの皮膚は何よりも葉子には愛らしかった。始終吹き出物でもしそうな、膿《うみ》っぽい女を葉子は何よりも呪《のろ》わしいものに思っていた。葉子はつやのまめやか[#「まめやか」に傍点]な心と言葉に引かされてそこにい残る事にした。
 これだけ貞世から隔たると葉子は始めて少し気のゆるむのを覚えて、腹部の痛みで突然目をさますほかにはたわいなく眠るような事もあった。しかしなんといってもいちばん心にかかるものは貞世だった。ささくれて、赤くかわいた口びるからもれ出るあの囈言《うわごと》……それがどうかすると近々《ちかぢか》と耳に聞こえたり、ぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と目を開いたりするその顔が浮き出して見えたりした。そればかりではない、葉子の五官は非常に敏捷《びんしょう》になって、おまけにイリュウジョンやハルシネーションを絶えず見たり聞いたりするようになってしまった。倉地なんぞはすぐそばにすわっているなと思って、苦しさに目をつぶりながら手を延ばして畳の上を探ってみる事などもあった。そんなにはっきり[#「はっきり」に傍点]見えた
前へ 次へ
全233ページ中212ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング