やだといった。
 「そういわずとも少し召し上がれ、ね、せっかくねえさんが加減したんだから。第一食べないでいては弱ってしまいますよ」
 そう促してみても貞世は金輪際《こんりんざい》あとを食べようとはしなかった。
 突然自分でも思いもよらない憤怒が葉子に襲いかかった。自分がこれほど骨を折ってしてやったのに、義理にももう少しは食べてよさそうなものだ。なんというわがままな子だろう(葉子は貞世が味覚を回復していて、流動食では満足しなくなったのを少しも考えに入れなかった)。
 そうなるともう葉子は自分を統御《とうぎょ》する力を失ってしまっていた。血管の中の血が一時にかっ[#「かっ」に傍点]と燃え立って、それが心臓に、そして心臓から頭に衝《つ》き進んで、頭蓋骨《ずがいこつ》はばり[#「ばり」に傍点]ばりと音を立てて破《わ》れそうだった。日ごろあれほどかわいがってやっているのに、……憎さは一倍だった。貞世を見つめているうちに、そのやせきった細首に鍬形《くわがた》にした両手をかけて、一思いにしめつけて、苦しみもがく様子を見て、「そら見るがいい」といい捨ててやりたい衝動がむずむずとわいて来た。その頭のまわりにあてがわるべき両手の指は思わず知らず熊手《くまで》のように折れ曲がって、はげしい力のために細かく震えた。葉子は凶器に変わったようなその手を人に見られるのが恐ろしかったので、茶わんと匙《さじ》とを食卓にかえして、前だれの下に隠してしまった。上《うわ》まぶたの一文字になった目をきりっ[#「きりっ」に傍点]と据えてはた[#「はた」に傍点]と貞世をにらみつけた。葉子の目には貞世のほかにその部屋《へや》のものは倉地から愛子に至るまですっかり[#「すっかり」に傍点]見えなくなってしまっていた。
 「食べないかい」
 「食べないかい。食べなければ云々《うんぬん》」と小言《こごと》をいって貞世を責めるはずだったが、初句を出しただけで、自分の声のあまりに激しい震えように言葉を切ってしまった。
 「食べない……食べない……御飯でなくってはいやあだあ」
 葉子の声の下からすぐこうしたわがままな貞世のすねにすねた声が聞こえたと葉子は思った。まっ黒な血潮がどっ[#「どっ」に傍点]と心臓を破って脳天に衝《つ》き進んだと思った。目の前で貞世の顔が三つにも四つにもなって泳いだ。そのあとには色も声もしびれ果ててしま
前へ 次へ
全233ページ中199ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング