うが、そんな事を聞くんじゃないの。この下宿屋からそんな女の人が出て行きましたか」
 「さよう……へ、一時間ばかり前ならお一人《ひとり》お帰りになりました」
 「双鶴館のお内儀《かみ》さんでしょう」
 図星《ずぼし》をさされたろうといわんばかりに葉子はわざと鷹揚《おうよう》な態度を見せてこう聞いてみた。
 「いゝえそうじゃございません」
 番頭は案外にもそうきっぱり[#「きっぱり」に傍点]といい切ってしまった。
 「それじゃだれ」
 「とにかく他のお部屋《へや》においでなさったお客様で、手前どもの商売上お名前までは申し上げ兼ねますが」
 葉子もこの上の問答の無益なのを知ってそのまま番頭を返してしまった。
 葉子はもう何者も信用する事ができなかった。ほんとうに双鶴館の女将《おかみ》が来たのではないらしくもあり、番頭までが倉地とぐる[#「ぐる」に傍点]になっていてしらじらしい虚言《うそ》をついたようにもあった。
 何事も当てにはならない。何事もうそ[#「うそ」に傍点]から出た誠だ。……葉子はほんとうに生きている事がいやになった。
 ……そこまで来て葉子は始めて自分が家を出て来たほんとうの目的がなんであるかに気づいた。すべてにつまずいて、すべてに見限られて、すべてを見限ろうとする、苦しみぬいた一つの魂が、虚無の世界の幻の中から消えて行くのだ。そこには何の未練も執着もない。うれしかった事も、悲しかった事も、悲しんだ事も、苦しんだ事も、畢竟《ひっきょう》は水の上に浮いた泡《あわ》がまたはじけて水に帰るようなものだ。倉地が、死骸《しがい》になった葉子を見て嘆こうが嘆くまいが、その倉地さえ幻の影ではないか。双鶴館の女将《おかみ》だと思った人が、他人であったように、他人だと思ったその人が、案外双鶴館の女将であるかもしれないように、生きるという事がそれ自身幻影でなくってなんであろう。葉子は覚《さ》めきったような、眠りほうけているような意識の中でこう思った。しんしんと底も知らず澄み透《とお》った心がただ一つぎり[#「ぎり」に傍点]ぎりと死のほうに働いて行った。葉子の目には一しずくの涙も宿ってはいなかった。妙にさえて落ち付き払ったひとみを静かに働かして、部屋の中を静かに見回していたが、やがて夢遊病者のように立ち上がって、戸棚《とだな》の中から倉地の寝具を引き出して来て、それを部屋のまん中に
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