に傍点]行ったり来たりする黒い影のようなものがあった。葉子は何物という分別《ふんべつ》もなく始めはただうるさいとのみ思っていたが、しまいにはこらえかねて手をあげてしきりにそれを追い払ってみた。追い払っても追い払ってもそのうるさい黒い影は目の前を立ち去ろうとはしなかった。……しばらくそうしているうちに葉子は寒気《さむけ》がするほどぞっ[#「ぞっ」に傍点]とおそろしくなって気がはっきり[#「はっきり」に傍点]した。
 急に周囲《あたり》には騒がしい下宿屋らしい雑音が聞こえ出した。葉子をうるさがらしたその黒い影は見る見る小さく遠ざかって、電燈の周囲をきり[#「きり」に傍点]きりと舞い始めた。よく見るとそれは大きな黒い夜蛾《よが》だった。葉子は神がかりが離れたようにきょとん[#「きょとん」に傍点]となって、不思議そうに居ずまいを正《ただ》してみた。
 どこまでが真実で、どこまでが夢なんだろう……。
 自分の家を出た、それに間違いはない。途中から取って返して風呂《ふろ》をつかった、……なんのために? そんなばかな事をするはずがない。でも妹たちの手ぬぐいが二筋ぬれて手ぬぐいかけの竹竿《たけざお》にかかっていた、(葉子はそう思いながら自分の顔をなでたり、手の甲を調べて見たりした。そして確かに湯にはいった事を知った。)それならそれでいい。それから双鶴館の女将《おかみ》のあとをつけたのだったが、……あのへんから夢になったのかしらん。あすこにいる蛾《が》をもやもやした黒い影のように思ったりしていた事から考えてみると、いまいましさから自分は思わず背たけの低い女の幻影を見ていたのかもしれない。それにしてもいるはずの倉地がいないという法はないが……葉子はどうしても自分のして来た事にはっきり[#「はっきり」に傍点]連絡をつけて考える事ができなかった。
 葉子は……自分の頭ではどう考えてみようもなくなって、ベルを押して番頭に来てもらった。
 「あのう、あとでこの蛾《が》を追い出しておいてくださいな……それからね、さっき……といったところがどれほど前だかわたしにもはっきり[#「はっきり」に傍点]しませんがね、ここに三十格好の丸髷《まるまげ》を結った女の人が見えましたか」
 「こちら様にはどなたもお見えにはなりませんが……」
 番頭は怪訝《けげん》な顔をしてこう答えた。
 「こちら様だろうがなんだろ
前へ 次へ
全233ページ中152ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング