》のすみにある生漆《きうるし》を塗った桑の広蓋《ひろぶた》を引き寄せて、それに手携《てさ》げや懐中物を入れ終わると、飽く事もなくその縁《ふち》から底にかけての円味《まるみ》を持った微妙な手ざわりを愛《め》で慈《いつく》しんだ。
場所がらとてそこここからこの界隈《かいわい》に特有な楽器の声が聞こえて来た。天長節であるだけにきょうはことさらそれがにぎやかなのかもしれない。戸外にはぽくり[#「ぽくり」に傍点]やあずま下駄《げた》の音が少し冴《さ》えて絶えずしていた。着飾《きかざ》った芸者たちがみがき上げた顔をびりびりするような夜寒《よさむ》に惜しげもなく伝法《でんぽう》にさらして、さすがに寒気《かんき》に足を早めながら、招《よ》ばれた所に繰り出して行くその様子が、まざまざと履《は》き物《もの》の音を聞いたばかりで葉子の想像には描かれるのだった。合い乗りらしい人力車のわだちの音も威勢よく響いて来た。葉子はもう一度これは屈強な避難所に来たものだと思った。この界隈《かいわい》では葉子は眦《まなじり》を反《かえ》して人から見られる事はあるまい。
珍しくあっさり[#「あっさり」に傍点]した、魚の鮮《あたら》しい夕食を済ますと葉子は風呂《ふろ》をつかって、思い存分髪を洗った。足《た》しない船の中の淡水では洗っても洗ってもねち[#「ねち」に傍点]ねちと垢《あか》の取り切れなかったものが、さわれば手が切れるほどさば[#「さば」に傍点]さばと油が抜けて、葉子は頭の中まで軽くなるように思った。そこに女将《おかみ》も食事を終えて話相手になりに来た。
「たいへんお遅《おそ》うございますこと、今夜のうちにお帰りになるでしょうか」
そう女将《おかみ》は葉子の思っている事を魁《さきが》けにいった。「さあ」と葉子もはっきり[#「はっきり」に傍点]しない返事をしたが、小寒《こさむ》くなって来たので浴衣《ゆかた》を着かえようとすると、そこに袖《そで》だたみにしてある自分の着物につくづく愛想《あいそ》が尽きてしまった。このへんの女中に対してもそんなしつっこい[#「しつっこい」に傍点]けばけばしい柄《がら》の着物は二度と着る気にはなれなかった。そうなると葉子はしゃにむにそれがたまらなくなって来るのだ。葉子はうんざり[#「うんざり」に傍点]した様子をして自分の着物から女将《おかみ》に目をやりながら、
「
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