免ください。船の中で始めてお目にかかってからわたし、ちっとも[#「ちっとも」に傍点]心持ちが変わってはいないんです。あなたがいらっしゃるんでわたし、ようやくさびしさからのがれます」
「うそ!……あなたはもうわたしに愛想《あいそ》をおつかしなのよ。わたしのように堕落したものは……」
葉子は岡の手を放して、とうとうハンケチを顔にあてた。
「そういう意味でいったわけじゃないんですけれども……」
ややしばらく沈黙した後に、当惑しきったようにさびしく岡は独語《ひとりご》ちてまた黙ってしまった。岡はどんなにさびしそうな時でもなかなか泣かなかった。それが彼をいっそうさびしく見せた。
三月末の夕方の空はなごやかだった。庭先の一重《ひとえ》桜のこずえには南に向いたほうに白い花《か》べんがどこからか飛んで来てくっついたようにちらほら[#「ちらほら」に傍点]見え出していた、その先には赤く霜枯れた杉森《すぎもり》がゆるやかに暮れ初《そ》めて、光を含んだ青空が静かに流れるように漂っていた。苔香園《たいこうえん》のほうから園丁が間遠《まどお》に鋏《はさみ》をならす音が聞こえるばかりだった。
若さから置いて行かれる……そうしたさびしみが嫉妬《しっと》にかわってひし[#「ひし」に傍点]ひしと葉子を襲って来た。葉子はふと母の親佐《おやさ》を思った。葉子が木部《きべ》との恋に深入りして行った時、それを見守っていた時の親佐を思った。親佐のその心を思った。自分の番が来た……その心持ちはたまらないものだった。と、突然定子の姿が何よりもなつかしいものとなって胸に逼《せま》って来た。葉子は自分にもその突然の連想の経路はわからなかった。突然もあまりに突然――しかし葉子に逼《せま》るその心持ちは、さらに葉子を畳に突っ伏《ぷ》して泣かせるほど強いものだった。
玄関から人のはいって来る気配がした。葉子はすぐそれが倉地である事を感じた。葉子は倉地と思っただけで、不思議な憎悪《ぞうお》を感じながらその動静に耳をすました。倉地は台所のほうに行って愛子を呼んだようだった。二人《ふたり》の足音が玄関の隣の六畳のほうに行った。そしてしばらく静かだった。と思うと、
「いや」
と小さく退けるようにいう愛子の声が確かに聞こえた。抱きすくめられて、もがきながら放たれた声らしかったが、その声の中には憎悪《ぞうお》の影は明ら
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