]がちゃと佩剣《はいけん》を取るらしい音も聞こえた。やがて岡の先に立って格好の悪いきたない黒の軍服を着た古藤が、皮類の腐ったような香《にお》いをぷんぷんさせながら葉子のいる所にはいって来た。
 葉子は他意なく好意をこめた目つきで、少女のように晴れやかに驚きながら古藤を見た。
 「まあこれが古藤さん? なんてこわい方《かた》になっておしまいなすったんでしょう。元の古藤さんはお額《ひたい》のお白い所だけにしか残っちゃいませんわ。がみ[#「がみ」に傍点]がみとしかったりなすっちゃいやです事よ。ほんとうにしばらく。もう金輪際《こんりんざい》来てはくださらないものとあきらめていましたのに、よく……よくいらしってくださいました。岡さんのお手柄ですわ……ありがとうございました」
 といって葉子はそこにならんですわった二人《ふたり》の青年をかたみがわりに見やりながら軽く挨拶《あいさつ》した。
 「さぞおつらいでしょうねえ。お湯は? お召しにならない? ちょうど沸いていますわ」
 「だいぶ臭くってお気の毒ですが、一度や二度湯につかったってなおりはしませんから……まあはいりません」
 古藤ははいって来た時のしかつめらしい様子に引きかえて顔色を軟《やわ》らがせられていた。葉子は心の中で相変わらずの simpleton だと思った。
 「そうねえ何時《なんじ》まで門限は?……え、六時? それじゃもういくらもありませんわね。じゃお湯はよしていただいてお話のほうをたんとしましょうねえ。いかが軍隊生活は、お気に入って?」
 「はいらなかった前以上にきらいになりました」
 「岡さんはどうなさったの」
 「わたしまだ猶予中ですが検査を受けたってきっとだめです。不合格のような健康を持つと、わたし軍隊生活のできるような人がうらやましくってなりません。……からだでも強くなったらわたし、もう少し心も強くなるんでしょうけれども……」
 「そんな事はありませんねえ」
 古藤は自分の経験から岡を説伏するようにそういった。
 「僕《ぼく》もその一人《ひとり》だが、鬼のような体格を持っていて、女のような弱虫が隊にいて見るとたくさんいますよ。僕はこんな心でこんな体格を持っているのが先天的の二重生活をしいられるようで苦しいんです。これからも僕はこの矛盾のためにきっと苦しむに違いない」
 「なんですねお二人とも、妙な所で謙
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