「全くはおれが悪かったのかもしれない。一時は全く金には弱り込んだ。しかしおれは早や世の中の底潮《そこしお》にもぐり込んだ人間だと思うと度胸がすわってしまいおった。毒も皿《さら》も食ってくれよう、そう思って(倉地はあたりをはばかるようにさらに声を落とした)やり出した仕事があの組合の事よ。水先案内のやつらはくわしい海図を自分で作って持っとる。要塞地《ようさいち》の様子も玄人《くろうと》以上ださ。それを集めにかかってみた。思うようには行かんが、食うだけの金は余るほど出る」
 葉子は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として息気《いき》がつまった。近ごろ怪しげな外国人が倉地の所に出入りするのも心当たりになった。倉地は葉子が倉地の言葉を理解して驚いた様子を見ると、ほとほと悪魔のような顔をしてにやり[#「にやり」に傍点]と笑った。捨てばちな不敵さと力とがみなぎって見えた。
 「愛想《あいそ》が尽きたか……」
 愛想が尽きた。葉子は自分自身に愛想が尽きようとしていた。葉子は自分の乗った船はいつでも相客《あいきゃく》もろともに転覆して沈んで底知れぬ泥土《でいど》の中に深々ともぐり込んで行く事を知った。売国|奴《ど》、国賊、――あるいはそういう名が倉地の名に加えられるかもしれない……と思っただけで葉子は怖毛《おぞけ》をふるって、倉地から飛びのこうとする衝動を感じた。ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした瞬間にただ瞬間だけ感じた。次にどうかしてそんな恐ろしいはめ[#「はめ」に傍点]から倉地を救い出さなければならないという殊勝な心にもなった。しかし最後に落ち着いたのは、その深みに倉地をことさら突き落としてみたい悪魔的な誘惑だった。それほどまでの葉子に対する倉地の心尽くしを、臆病《おくびょう》な驚きと躊躇《ちゅうちょ》とで迎える事によって、倉地に自分の心持ちの不徹底なのを見下げられはしないかという危惧《きぐ》よりも、倉地が自分のためにどれほどの堕落でも汚辱でも甘んじて犯すか、それをさせてみて、満足しても満足しても満足しきらない自分の心の不足を満たしたかった。そこまで倉地を突き落とすことは、それだけ二人《ふたり》の執着を強める事だとも思った。葉子は何事を犠牲に供しても灼熱《しゃくねつ》した二人の間の執着を続けるばかりでなくさらに強める術《すべ》を見いだそうとした。倉地の告白を聞いて驚いた次の瞬間に
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