んなわたしだかわたしではないか……(そこで葉子は倉地から離れてきちん[#「きちん」に傍点]とすわり直して袂《たもと》で顔をおおうてしまった)泥棒《どろぼう》をしろとおっしゃるほうがまだ増しです……あなたお一人《ひとり》でくよ[#「くよ」に傍点]くよなさって……お金の出所を……暮らし向きが張り過ぎるなら張り過ぎると……なぜ相談に乗らせてはくださらないの……やはりあなたはわたしを真身《しんみ》には思っていらっしゃらないのね……」
倉地は一度は目を張って驚いたようだったが、やがて事もなげに笑い出した。
「そんな事を思っとったのか。ばかだなあお前は。御好意は感謝します……全く。しかしなんぼやせても枯れても、おれは女の子の二人《ふたり》や三人養うに事は欠かんよ。月に三百や四百の金が手回らんようなら首をくくって死んで見せる。お前をまで相談に乗せるような事はいらんのだよ。そんな陰にまわった心配事はせん事にしようや。こののんき坊のおれまでがいらん気をもませられるで……」
「そりゃうそです」
葉子は顔をおおうたままきっぱり[#「きっぱり」に傍点]と矢継ぎ早にいい放った。倉地は黙ってしまった。葉子もそのまましばらくはなんとも言い出《い》でなかった。
母屋《おもや》のほうで十二を打つ柱時計の声がかすかに聞こえて来た。寒さもしんしんと募っていたには相違なかった。しかし葉子はそのいずれをも心の戸の中までは感じなかった。始めは一種のたくらみから狂言でもするような気でかかったのだったけれども、こうなると葉子はいつのまにか自分で自分の情におぼれてしまっていた。木村を犠牲にしてまでも倉地におぼれ込んで行く自分があわれまれもした。倉地が費用の出所をついぞ打ち明けて相談してくれないのが恨みがましく思われもした。知らず知らずのうちにどれほど葉子は倉地に食い込み、倉地に食い込まれていたかをしみじみと今さらに思い知った。どうなろうとどうあろうと倉地から離れる事はもうできない。倉地から離れるくらいなら自分はきっと死んで見せる。倉地の胸に歯を立ててその心臓をかみ破ってしまいたいような狂暴な執念が葉子を底知れぬ悲しみへ誘い込んだ。
心の不思議な作用として倉地も葉子の心持ちは刺青《いれずみ》をされるように自分の胸に感じて行くらしかった。やや程経《ほどた》ってから倉地は無感情のような鈍い声でいい出した。
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