人間たちを胸のすき切るまで思い存分笑ってやるのに。そう思うと岡の煮え切らないような態度が歯がゆくもあった。しかしなんといっても抱きしめたいほど可憐《かれん》なのは岡の繊美なさびしそうな姿だった。岡は上手《じょうず》に入れられた甘露《かんろ》をすすり終わった茶《ちゃ》わんを手の先に据《す》えて綿密にその作りを賞翫《しょうがん》していた。
 「お覚えになるようなものじゃございません事よ」
 岡は悪い事でもしていたように顔を赤くしてそれを下においた。彼はいいかげんな世辞はいえないらしかった。
 岡は始めて来た家に長居《ながい》するのは失礼だと来た時から思っていて、機会あるごとに座を立とうとするらしかったが、葉子はそういう岡の遠慮に感づけば感づくほど巧みにもすべての機会を岡に与えなかった。
 「もう少しお待ちになると雪が小降りになりますわ。今、こないだインドから来た紅茶を入れてみますから召し上がってみてちょうだい。ふだんいいものを召し上がりつけていらっしゃるんだから、鑑定をしていただきますわ。ちょっと、……ほんのちょっと待っていらしってちょうだいよ」
 そういうふうにいって岡を引き止めた。始めの間こそ倉地に対してのようにはなつかなかった貞世もだんだんと岡と口をきくようになって、しまいには岡の穏やかな問いに対して思いのままをかわいらしく語って聞かせたり、話題に窮して岡が黙ってしまうと貞世のほうから無邪気な事を聞きただして、岡をほほえましたりした。なんといっても岡は美しい三人の姉妹が(そのうち愛子だけは他の二人《ふたり》とは全く違った態度で)心をこめて親しんで来るその好意には敵し兼ねて見えた。盛んに火を起こした暖かい部屋《へや》の中の空気にこもる若い女たちの髪からとも、ふところからとも、膚からとも知れぬ柔軟な香《かお》りだけでも去りがたい思いをさせたに違いなかった。いつのまにか岡はすっかり[#「すっかり」に傍点]腰を落ち着けて、いいようなく快く胸の中のわだかまり[#「わだかまり」に傍点]を一掃したように見えた。
 それからというもの、岡は美人屋敷とうわさされる葉子の隠れ家《が》におりおり出入りするようになった。倉地とも顔を合わせて、互いに快く船の中での思い出し話などをした。岡の目の上には葉子の目が義眼《いれめ》されていた。葉子のよしと見るものは岡もよしと見た。葉子の憎むものは岡
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