た岡|一《はじめ》様。……愛さんあなたお知り申していないの……あの失礼ですがなんとおっしゃいますの、お従妹御《いとこご》さんのお名前は」
 と岡に尋ねた。岡は言葉どおりに神経を転倒させていた。それはこの青年を非常に醜くかつ美しくして見せた。急いですわり直した居ずまいをすぐ意味もなくくずして、それをまた非常に後悔したらしい顔つきを見せたりした。
 「は?」
 「あのわたしどものうわさをなさったそのお嬢様のお名前は」
 「あのやはり岡といいます」
 「岡さんならお顔は存じ上げておりますわ。一つ上の級にいらっしゃいます」
 愛子は少しも騒がずに、倉地に対した時と同じ調子でじっ[#「じっ」に傍点]と岡を見やりながら即座にこう答えた。その目は相変わらず淫蕩《いんとう》と見えるほど極端に純潔だった。純潔と見えるほど極端に淫蕩だった。岡は怖《お》じながらもその目から自分の目をそらす事ができないようにまとも[#「まとも」に傍点]に愛子を見て見る見る耳たぶまでをまっ赤《か》にしていた。葉子はそれを気取《けど》ると愛子に対していちだんの憎しみを感ぜずにはいられなかった。
 「倉地さんは……」
 岡は一路の逃げ道をようやく求め出したように葉子に目を転じた。
 「倉地さん? たった今お帰りになったばかり惜しい事をしましてねえ。でもあなたこれからはちょく[#「ちょく」に傍点]ちょくいらしってくださいますわね。倉地さんもすぐお近所にお住まいですからいつかごいっしょに御飯でもいただきましょう。わたし日本に帰ってからこの家にお客様をお上げするのはきょうが始めてですのよ。ねえ貞《さあ》ちゃん。……ほんとうによく来てくださいました事。わたしとうから来ていただきたくってしようがなかったんですけれども、倉地さんからなんとかいって上げてくださるだろうと、そればかりを待っていたのですよ。わたしからお手紙を上げるのはいけませんもの(そこで葉子はわかってくださるでしょうというような優しい目つきを強い表情を添えて岡に送った)。木村からの手紙であなたの事はくわしく伺っていましたわ。いろいろお苦しい事がおありになるんですってね」
 岡はそのころになってようやく自分を回復したようだった。しどろもどろ[#「しどろもどろ」に傍点]になった考えや言葉もやや整って見えた。愛子は一度しげしげと岡を見てしまってからは、決して二度とは
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