に案内を求める男の声がした。それを聞くと貞世は姉から離れて駆け出して行った。愛子が襷《たすき》をはずしながら台所から出て来た時分には、貞世はもう一枚の名刺を持って葉子の所に取って返していた。金縁《きんぶち》のついた高価らしい名刺の表には岡一《おかはじめ》と記《しる》してあった。
「まあ珍しい」
葉子は思わず声を立てて貞世と共に玄関に走り出た。そこには処女のように美しく小柄《こがら》な岡が雪のかかった傘《かさ》をつぼめて、外套《がいとう》のしたたりを紅《べに》をさしたように赤らんだ指の先ではじきながら、女のようにはにかんで立っていた。
「いい所でしょう。おいでには少しお寒かったかもしれないけれども、きょうはほんとにいいおりからでしたわ。隣に見えるのが有名な苔香園《たいこうえん》、あすこの森の中が紅葉館、この杉《すぎ》の森がわたし大好きですの。きょうは雪が積もってなおさらきれいですわ」
葉子は岡を二階に案内して、そこのガラス戸越しにあちこちの雪景色を誇りがに指呼《しこ》して見せた。岡は言葉|少《すく》なながら、ちかちかとまぶしい印象を目に残して、降り下り降りあおる雪の向こうに隠見する山内《さんない》の木立《こだ》ちの姿を嘆賞した。
「それにしてもどうしてあなたはここを……倉地から手紙でも行きましたか」
岡は神秘的にほほえんで葉子を顧みながら「いゝえ」といった。
「そりゃおかしい事……それではどうして」
縁側から座敷へ戻《もど》りながらおもむろに、
「お知らせがないもので上がってはきっといけないとは思いましたけれども、こんな雪の日ならお客もなかろうからひょっとか[#「ひょっとか」に傍点]すると会ってくださるかとも思って……」
そういういい出しで岡が語るところによれば、岡の従妹《いとこ》に当たる人が幽蘭女学校に通学していて、正月の学期から早月《さつき》という姉妹の美しい生徒が来て、それは芝山内の裏坂に美人屋敷といって界隈《かいわい》で有名な家の三人姉妹の中の二人であるという事や、一番の姉に当たる人が「報正新報」でうわさを立てられた優《すぐ》れた美貌《びぼう》の持ち主だという事やが、早くも口さがない生徒間の評判になっているのを何かのおりに話したのですぐ思い当たったけれども、一日一日と訪問を躊躇《ちゅうちょ》していたのだとの事だった。葉子は今さらに世間の案外
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