まで葉子の愛におぼれ、葉子の存在に生きようとしてくれているのだ。それを思うと葉子は倉地のためになんでもして見せてやりたかった。時によるとわれにもなく侵して来る涙ぐましい感じをじっ[#「じっ」に傍点]とこらえて、定子に会いに行かずにいるのも、そうする事が何か宗教上の願がけで、倉地の愛をつなぎとめる禁厭《まじない》のように思えるからしている事だった。木村にだっていつかは物質上の償い目に対して物質上の返礼だけはする事ができるだろう。自分のする事は「つつもたせ」とは形が似ているだけだ。やってやれ。そう葉子は決心した。読むでもなく読まぬでもなく手に持ってながめていた手紙の最後の一枚を葉子は無意識のようにぽたり[#「ぽたり」に傍点]と膝《ひざ》の上に落とした。そしてそのままじっ[#「じっ」に傍点]と鉄びんから立つ湯気《ゆげ》が電燈の光の中に多様な渦紋《かもん》を描いては消え描いては消えするのを見つめていた。
しばらくしてから葉子は物うげに深い吐息を一つして、上体をひねって棚《たな》の上から手文庫を取りおろした。そして筆をかみながらまた上目でじっ[#「じっ」に傍点]と何か考えるらしかった。と、急に生きかえったようにはき[#「はき」に傍点]はきなって、上等のシナ墨を眼《がん》の三つまではいったまんまるい硯《すずり》にすりおろした。そして軽く麝香《じゃこう》の漂うなかで男の字のような健筆で、精巧な雁皮紙《がんぴし》の巻紙に、一気に、次のようにしたためた。
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「書けばきり[#「きり」に傍点]がございません。伺えばきり[#「きり」に傍点]がございません。だから書きもいたしませんでした。あなたのお手紙もきょういただいたものまでは拝見せずにずたずたに破って捨ててしまいました。その心をお察しくださいまし。
うわさにもお聞きとは存じますが、わたしはみごとに社会的に殺されてしまいました。どうしてわたしがこの上あなたの妻と名乗れましょう。自業自得と世の中では申します。わたしも確かにそう存じています。けれども親類、縁者、友だちにまで突き放されて、二人《ふたり》の妹をかかえてみますと、わたしは目もくらんでしまいます。倉地さんだけがどういう御縁かお見捨てなくわたしども三人をお世話くださっています。こうしてわたしはどこまで沈んで行く事でございましょう。ほんとうに自業自得でございま
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