因ともなくそのころ気分がいらいらしがちで寝付きも悪かったので、ぞくぞくしみ込んで来るような寒さにも係わらず、火鉢《ひばち》のそばにいた。そして所在ないままにその日倉地の下宿から届けて来た木村の手紙を読んで見る気になったのだ。
葉子は猫板《ねこいた》に片|肘《ひじ》を持たせながら、必要もないほど高価だと思われる厚い書牋紙《しょせんし》に大きな字で書きつづってある木村の手紙を一枚一枚読み進んだ。おとなびたようで子供っぽい、そうかと思うと感情の高潮を示したと思われる所も妙に打算的な所が離れ切らないと葉子に思わせるような内容だった。葉子は一々精読するのがめんどうなので行《ぎょう》から行に飛び越えながら読んで行った。そして日付けの所まで来ても格別な情緒を誘われはしなかった。しかし葉子はこの以前倉地の見ている前でしたようにずたずたに引き裂いて捨ててしまう事はしなかった。しなかったどころではない、その中には葉子を考えさせるものが含まれていた。木村は遠からずハミルトンとかいう日本の名誉領事をしている人の手から、日本を去る前に思いきってして行った放資の回収をしてもらえるのだ。不即不離の関係を破らずに別れた自分のやりかたはやはり図にあたっていたと思った。「宿屋きめずに草鞋《わらじ》を脱」ぐばかをしない必要はもうない、倉地の愛は確かに自分の手に握り得たから。しかし口にこそ出しはしないが、倉地は金の上ではかなりに苦しんでいるに違いない。倉地の事業というのは日本じゅうの開港場にいる水先《みずさき》案内業者の組合を作って、その実権を自分の手に握ろうとするのらしかったが、それが仕上がるのは短い日月にはできる事ではなさそうだった。ことに時節が時節がら正月にかかっているから、そういうものの設立にはいちばん不便な時らしくも思われた。木村を利用してやろう。
しかし葉子の心の底にはどこかに痛みを覚えた。さんざん木村を苦しめ抜いたあげくに、なおあの根の正直な人間をたぶらかしてなけなしの金をしぼり取るのは俗にいう「つつもたせ」の所業と違ってはいない。そう思うと葉子は自分の堕落を痛く感ぜずにはいられなかった。けれども現在の葉子にいちばん大事なものは倉地という情人のほかにはなかった。心の痛みを感じながらも倉地の事を思うとなお心が痛かった。彼は妻子を犠牲に供し、自分の職業を犠牲に供し、社会上の名誉を犠牲に供して
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