けるような事は一度もなかった。それは倉地自身が告白するように破天荒《はてんこう》な事だったらしい。二人《ふたり》は、初めて恋を知った少年少女が世間《せけん》も義理も忘れ果てて、生命《いのち》さえ忘れ果てて肉体を破ってまでも魂を一つに溶かしたいとあせる、それと同じ熱情をささげ合って互い互いを楽しんだ。楽しんだというよりも苦しんだ。その苦しみを楽しんだ。倉地はこの家に移って以来新聞も配達させなかった。郵便だけは移転通知をして置いたので倉地の手もとに届いたけれども、倉地はその表書きさえ目を通そうとはしなかった。毎日の郵便はつやの手によって束《たば》にされて、葉子が自分の部屋《へや》に定めた玄関わきの六畳の違《ちが》い棚《だな》にむなしく積み重ねられた。葉子の手もとには妹たちからのほかには一枚のはがきさえ来なかった。それほど世間から自分たちを切り放しているのを二人《ふたり》とも苦痛とは思わなかった。苦痛どころではない、それが幸いであり誇りであった。門には「木村」とだけ書いた小さい門札《もんさつ》が出してあった。木村という平凡な姓は二人の楽しい巣を世間にあばくような事はないと倉地がいい出したのだった。
しかしこんな生活を倉地に長い間要求するのは無理だということを葉子はついに感づかねばならなかった。ある夕食の後《のち》倉地は二階の一|間《ま》で葉子を力強く膝《ひざ》の上に抱き取って、甘い私語《ささやき》を取りかわしていた時、葉子が情に激して倉地に与えた熱い接吻《せっぷん》の後にすぐ、倉地が思わず出たあくびをじっ[#「じっ」に傍点]とかみ殺したのをいち早く見て取ると、葉子はこの種の歓楽がすでに峠を越した事を知った。その夜は葉子には不幸な一夜だった。かろうじて築き上げた永遠の城塞《じょうさい》が、はかなくも瞬時の蜃気楼《しんきろう》のように見る見るくずれて行くのを感じて、倉地の胸に抱かれながらほとんど一夜を眠らずに通してしまった。
それでも翌日になると葉子は快活になっていた。ことさら快活に振る舞おうとしていたには違いないけれども、葉子の倉地に対する溺愛《できあい》は葉子をしてほとんど自然に近い容易さをもってそれをさせるに充分だった。
「きょうはわたしの部屋《へや》でおもしろい事して遊びましょう。いらっしゃいな」
そういって少女が少女を誘うように牡牛《おうし》のように大きな倉
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