ったかどに身を引いた。田川夫婦もほほえみながら、サルンから挨拶《あいさつ》のために近づいて来た。葉子はそれを見ると、古藤のそばに寄り添ったまま、左手をやさしく上げて、鬢《びん》のほつれをかき上げながら、頭を心持ち左にかしげてじっ[#「じっ」に傍点]と田川の目を見やった。田川は桟橋のほうに気を取られて急ぎ足で手欄《てすり》のほうに歩いていたが、突然見えぬ力にぐっ[#「ぐっ」に傍点]と引きつけられたように、葉子のほうに振り向いた。
 田川夫人も思わず良人《おっと》の向くほうに頭を向けた。田川の威厳に乏しい目にも鋭い光がきらめいては消え、さらにきらめいて消えたのを見すまして、葉子は始めて田川夫人の目を迎えた。額の狭い、顎《あご》の固い夫人の顔は、軽蔑《けいべつ》と猜疑《さいぎ》の色をみなぎらして葉子に向かった。葉子は、名前だけをかねてから聞き知って慕っていた人を、今目の前に見たように、うやうやしさと親しみとの交じり合った表情でこれに応じた。そしてすぐそのばから、夫人の前にも頓着《とんじゃく》なく、誘惑のひとみを凝らしてその良人の横顔をじっ[#「じっ」に傍点]と見やるのだった。
 「田川法学|博士《はかせ》夫人万歳」「万歳」「万歳」
 田川その人に対してよりもさらに声高《こわだか》な大歓呼が、桟橋にいて傘《かさ》を振り帽子を動かす人々の群れから起こった。田川夫人は忙《せわ》しく葉子から目を移して、群集に取っときの笑顔《えがお》を見せながら、レースで笹縁《ささべり》を取ったハンケチを振らねばならなかった。田川のすぐそばに立って、胸に何か赤い花をさして型のいいフロック・コートを着て、ほほえんでいた風流な若紳士は、桟橋の歓呼を引き取って、田川夫人の面前で帽子を高くあげて万歳を叫んだ。デッキの上はまた一しきりどよめき渡った。
 やがて甲板の上は、こんな騒ぎのほかになんとなく忙《せわ》しくなって来た。事務員や水夫たちが、物せわしそうに人中を縫うてあちこちする間に、手を取り合わんばかりに近よって別れを惜しむ人々の群れがここにもかしこにも見え始めた。サルン・デッキから見ると、三等客の見送り人がボーイ長にせき立てられて、続々|舷門《げんもん》から降り始めた。それと入れ代わりに、帽子、上着、ズボン、ネクタイ、靴《くつ》などの調和の少しも取れていないくせに、むやみに気取った洋装をした非番の下級船員たちが、ぬれた傘《かさ》を光らしながら駆けこんで来た。その騒ぎの間に、一種|生臭《なまぐさ》いような暖かい蒸気が甲板の人を取り巻いて、フォクスルのほうで、今までやかましく荷物をまき上げていた扛重機《クレーン》の音が突然やむと、かーんとするほど人々の耳はかえって遠くなった。隔たった所から互いに呼びかわす水夫らの高い声は、この船にどんな大危険でも起こったかと思わせるような不安をまき散らした。親しい間の人たちは別れの切《せつ》なさに心がわくわくしてろくに口もきかず、義理一ぺんの見送り人は、ややともするとまわりに気が取られて見送るべき人を見失う。そんなあわただしい抜錨《ばつびょう》の間ぎわになった。葉子の前にも、急にいろいろな人が寄り集まって来て、思い思いに別れの言葉を残して船を降り始めた。葉子はこんな混雑な間にも田川のひとみが時々自分に向けられるのを意識して、そのひとみを驚かすようななまめいたポーズや、たよりなげな表情を見せるのを忘れないで、言葉少なにそれらの人に挨拶《あいさつ》した。叔父《おじ》と叔母《おば》とは墓の穴まで無事に棺を運んだ人夫のように、通り一ぺんの事をいうと、預かり物を葉子に渡して、手の塵《ちり》をはたかんばかりにすげなく、まっ先に舷梯《げんてい》を降りて行った。葉子はちらっ[#「ちらっ」に傍点]と叔母の後ろ姿を見送って驚いた。今の今までどことて似通う所の見えなかった叔母も、その姉なる葉子の母の着物を帯まで借りて着込んでいるのを見ると、はっ[#「はっ」に傍点]と思うほどその姉にそっくり[#「そっくり」に傍点]だった。葉子はなんという事なしにいやな心持ちがした。そしてこんな緊張した場合にこんなちょっとした事にまでこだわる自分を妙に思った。そう思う間《ま》もあらせず、今度は親類の人たちが五六人ずつ、口々に小やかましく何かいって、あわれむような妬sねた》むような目つきを投げ与えながら、幻影のように葉子の目と記憶とから消えて行った。丸髷《まるまげ》に結ったり教師らしい地味《じみ》な束髪に上げたりしている四人の学校友だちも、今は葉子とはかけ隔たった境界《きょうがい》の言葉づかいをして、昔葉子に誓った言葉などは忘れてしまった裏切り者の空々《そらぞら》しい涙を見せたりして、雨にぬらすまいと袂《たもと》を大事にかばいながら、傘にかくれてこれも舷梯《げんてい》を消えて行ってしまった。最後に物おじする様子の乳母《うば》が葉子の前に来て腰をかがめた。葉子はとうとう行き詰まる所まで来たような思いをしながら、振り返って古藤を見ると、古藤は依然として手欄《てすり》に身を寄せたまま、気抜けでもしたように、目を据えて自分の二三|間《げん》先をぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]ながめていた。
 「義一さん、船の出るのも間《ま》が無さそうですからどうか此女《これ》……わたしの乳母ですの……の手を引いておろしてやってくださいましな。すべりでもすると怖《こお》うござんすから」
 と葉子にいわれて古藤は始めてわれに返った。そしてひとり言《ごと》のように、
 「この船で僕もアメリカに行って見たいなあ」
 とのんきな事をいった。
 「どうか桟橋まで見てやってくださいましね。あなたもそのうちぜひいらっしゃいましな……義一さんそれではこれでお別れ。ほんとうに、ほんとうに」
 といいながら葉子はなんとなく親しみをいちばん深くこの青年に感じて、大きな目で古藤をじっと見た。古藤も今さらのように葉子をじっと見た。
 「お礼の申しようもありません。この上のお願いです。どうぞ妹たちを見てやってくださいまし。あんな人たちにはどうしたって頼んではおけませんから。……さようなら」
 「さようなら」
 古藤は鸚鵡返《おうむがえ》しに没義道《もぎどう》にこれだけいって、ふいと手欄《てすり》を離れて、麦稈《むぎわら》帽子を目深《まぶか》にかぶりながら、乳母に付き添った。
 葉子は階子《はしご》の上がり口まで行って二人に傘《かさ》をかざしてやって、一段一段遠ざかって行く二人《ふたり》の姿を見送った。東京で別れを告げた愛子や貞世の姿が、雨にぬれた傘のへんを幻影となって見えたり隠れたりしたように思った。葉子は不思議な心の執着から定子にはとうとう会わないでしまった。愛子と貞世とはぜひ見送りがしたいというのを、葉子はしかりつけるようにいってとめてしまった。葉子が人力車で家を出ようとすると、なんの気なしに愛子が前髪から抜いて鬢《びん》をかこうとした櫛《くし》が、もろくもぽきり[#「ぽきり」に傍点]と折れた。それを見ると愛子は堪《こら》え堪えていた涙の堰《せき》を切って声を立てて泣き出した。貞世は初めから腹でも立てたように、燃えるような目からとめどなく涙を流して、じっ[#「じっ」に傍点]と葉子を見つめてばかりいた。そんな痛々しい様子がその時まざまざと葉子の目の前にちらついたのだ。一人《ひとり》ぽっちで遠い旅に鹿島立《かしまだ》って行く自分というものがあじきなくも思いやられた。そんな心持ちになると忙《せわ》しい間にも葉子はふと田川のほうを振り向いて見た。中学校の制服を着た二人の少年と、髪をお下げにして、帯をおはさみ[#「おはさみ」に傍点]にしめた少女とが、田川と夫人との間にからまってちょうど告別をしているところだった。付き添いの守《も》りの女が少女を抱き上げて、田川夫人の口びるをその額に受けさしていた。葉子はそんな場面を見せつけられると、他人事《ひとごと》ながら自分が皮肉でむちうたれるように思った。竜《りゅう》をも化して牝豚《めぶた》にするのは母となる事だ。今の今まで焼くように定子の事を思っていた葉子は、田川夫人に対してすっかり反対の事を考えた。葉子はそのいまいましい光景から目を移して舷梯《げんてい》のほうを見た。しかしそこにはもう乳母の姿も古藤の影もなかった。
 たちまち船首のほうからけたたましい銅鑼《どら》の音が響き始めた。船の上下は最後のどよめきに揺らぐように見えた。長い綱を引きずって行く水夫が帽子の落ちそうになるのを右の手でささえながら、あたりの空気に激しい動揺を起こすほどの勢いで急いで葉子のかたわらを通りぬけた。見送り人は一斉《いっせい》に帽子を脱いで舷梯のほうに集まって行った。その際になって五十川女史ははた[#「はた」に傍点]と葉子の事を思い出したらしく、田川夫人に何かいっておいて葉子のいる所にやって来た。
 「いよいよお別れになったが、いつぞやお話しした田川の奥さんにおひきあわせしようからちょっと」
 葉子は五十川女史の親切ぶりの犠牲になるのを承知しつつ、一種の好奇心にひかされて、そのあとについて行こうとした。葉子に初めて物をいう田川の態度も見てやりたかった。その時、
 「葉子さん」
 と突然いって、葉子の肩に手をかけたものがあった。振り返るとビールの酔いのにおいがむせかえるように葉子の鼻を打って、目の心《しん》まで紅《あか》くなった知らない若者の顔が、近々と鼻先にあらわれていた。はっ[#「はっ」に傍点]と身を引く暇もなく、葉子の肩はびしょぬれになった酔いどれの腕でがっしりと巻かれていた。
 「葉子さん、覚えていますかわたしを……あなたはわたしの命なんだ。命なんです」
 といううちにも、その目からはほろほろと煮えるような涙が流れて、まだうら若いなめらかな頬《ほお》を伝った。膝《ひざ》から下がふらつくのを葉子にすがって危うくささえながら、
 「結婚をなさるんですか……おめでとう……おめでとう……だがあなたが日本にいなくなると思うと……いたたまれないほど心細いんだ……わたしは……」
 もう声さえ続かなかった。そして深々と息気《いき》をひいてしゃくり上げながら、葉子の肩に顔を伏せてさめざめと男泣きに泣き出した。
 この不意な出来事はさすがに葉子を驚かしもし、きまりも悪くさせた。だれだとも、いつどこであったとも思い出す由がない。木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、82−8]《きべこきょう》と別れてから、何という事なしに捨てばちな心地《ここち》になって、だれかれの差別もなく近寄って来る男たちに対して勝手気ままを振る舞ったその間に、偶然に出あって偶然に別れた人の中の一人《ひとり》でもあろうか。浅い心でもてあそんで行った心の中にこの男の心もあったであろうか。とにかく葉子には少しも思い当たる節《ふし》がなかった。葉子はその男から離れたい一心に、手に持った手鞄《てかばん》と包み物とを甲板の上にほうりなげて、若者の手をやさしく振りほどこうとして見たが無益だった。親類や朋輩《ほうばい》たちの事あれがしな目が等しく葉子に注がれているのを葉子は痛いほど身に感じていた。と同時に、男の涙が薄い単衣《ひとえ》の目を透《とお》して、葉子の膚にしみこんで来るのを感じた。乱れたつやつやしい髪のにおいもつい鼻の先で葉子の心を動かそうとした。恥も外聞も忘れ果てて、大空の下ですすり泣く男の姿を見ていると、そこにはかすかな誇りのような気持ちがわいて来た。不思議な憎しみといとしさがこんがらかって葉子の心の中で渦巻《うずま》いた。葉子は、
 「さ、もう放してくださいまし、船が出ますから」
 ときびしくいって置いて、かんで含めるように、
 「だれでも生きてる間は心細く暮らすんですのよ」
 とその耳もとにささやいて見た。若者はよくわかったというふうに深々とうなずいた。しかし葉子を抱く手はきびしく震えこそすれ、ゆるみそうな様子は少しも見えなかった。
 物々しい銅鑼《どら》の響きは左舷から右舷に回って、また船首のほうに聞こえて行こうとしていた。船員
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