かたがない。今になってそんな事をいったってしかたがないじゃないの」
 とたしなめ諭《さと》すようにいうと、
 「しかたがあるわ」
 と貞世は大きな目で姉を見上げながら、
 「お嫁に行かなければよろしいじゃないの」
 といって、くるり[#「くるり」に傍点]と首を回して一同を見渡した。貞世のかわいい目は「そうでしょう」と訴えているように見えた。それを見ると一同はただなんという事もなく思いやりのない笑いかたをした。叔父《おじ》はことに大きなとんきょ[#「とんきょ」に傍点]な声で高々と笑った。先刻から黙ったままでうつむいてさびしくすわっていた愛子は、沈んだ恨めしそうな目でじっ[#「じっ」に傍点]と叔父をにらめたと思うと、たちまちわくように涙をほろほろと流して、それを両袖でぬぐいもやらず立ち上がってその部屋《へや》をかけ出した。階子段《はしごだん》の所でちょうど下から上がって来た叔母と行きあったけはいがして、二人《ふたり》が何かいい争うらしい声が聞こえて来た。
 一座はまた白《しら》け渡った。
 「叔父さんにも申し上げておきます」
 と沈黙を破った葉子の声が妙に殺気を帯びて響いた。
 「これまで何かとお世話様になってありがとうこざいましたけれども、この家もたたんでしまう事になれば、妹たちも今申したとおり塾《じゅく》に入れてしまいますし、この後はこれといって大して御厄介《ごやっかい》はかけないつもりでございます。赤の他人の古藤さんにこんな事を願ってはほんとうにすみませんけれども、木村の親友でいらっしゃるのですから、近い他人ですわね。古藤さん、あなた貧乏|籤《くじ》を背負い込んだと思《おぼ》し召《め》して、どうか二人《ふたり》を見てやってくださいましな。いいでしょう。こう親類の前ではっきり[#「はっきり」に傍点]申しておきますから、ちっとも御遠慮なさらずに、いいとお思いになったようになさってくださいまし。あちらへ着いたらわたしまたきっとどうともいたしますから。きっとそんなに長い間御迷惑はかけませんから。いかが、引き受けてくださいまして?」
 古藤は少し躊躇《ちゅうちょ》するふうで五十川《いそがわ》女史を見やりながら、
 「あなたはさっきから赤坂学院のほうがいいとおっしゃるように伺っていますが、葉子さんのいわれるとおりにしてさしつかえないのですか。念のために伺っておきたいのですが」
 と尋ねた。葉子はまたあんなよけいな事をいうと思いながらいらいらした。五十川女史は日ごろの円滑な人ずれのした調子に似ず、何かひどく激昂《げきこう》した様子で、
 「わたしは亡《な》くなった親佐《おやさ》さんのお考えはこうもあろうかと思った所を申したまでですから、それを葉子さんが悪いとおっしゃるなら、その上とやかく言いともないのですが、親佐さんは堅い昔風な信仰を持った方《かた》ですから、田島さんの塾は前からきらいでね……よろしゅうございましょう、そうなされば。わたしはとにかく赤坂学院が一番だとどこまでも思っとるだけです」
 といいながら、見下げるように葉子の胸のあたりをまじまじとながめた。葉子は貞世を抱いたまましゃん[#「しゃん」に傍点]と胸をそらして目の前の壁のほうに顔を向けていた、たとえばばら[#「ばら」に傍点]ばらと投げられるつぶて[#「つぶて」に傍点]を避けようともせずに突っ立つ人のように。
 古藤は何か自分|一人《ひとり》で合点したと思うと、堅く腕組みをしてこれも自分の前の目八|分《ぶ》の所をじっ[#「じっ」に傍点]と見つめた。
 一座の気分はほとほと動きが取れなくなった。その間でいちばん早くきげんを直して相好《そうごう》を変えたのは五十川《いそがわ》女史だった。子供を相手にして腹を立てた、それを年がいないとでも思ったように、気を変えてきさく[#「きさく」に傍点]に立ちじたくをしながら、
 「皆さんいかが、もうお暇《いとま》にいたしましたら……お別れする前にもう一度お祈りをして」
 「お祈りをわたしのようなもののためになさってくださるのは御無用に願います」
 葉子は和らぎかけた人々の気分にはさらに頓着《とんじゃく》なく、壁に向けていた目を貞世に落として、いつのまにか寝入ったその人の艶々《つやつや》しい顔をなでさすりながらきっぱり[#「きっぱり」に傍点]といい放った。
 人々は思い思いな別れを告げて帰って行った。葉子は貞世がいつのまにか膝《ひざ》の上に寝てしまったのを口実にして人々を見送りには立たなかった。
 最後の客が帰って行ったあとでも、叔父叔母《おじおば》は二階を片づけには上がってこなかった。挨拶《あいさつ》一つしようともしなかった。葉子は窓のほうに頭を向けて、煉瓦《れんが》の通りの上にぼうっ[#「ぼうっ」に傍点]と立つ灯《ひ》の照り返しを見やりながら、夜風にほてった顔を冷やさせて、貞世を抱いたまま黙ってすわり続けていた。間遠《まどお》に日本橋を渡る鉄道馬車の音が聞こえるばかりで、釘店《くぎだな》の人通りは寂しいほどまばらになっていた。
 姿は見せずに、どこかのすみで愛子がまだ泣き続けて鼻をかんだりする音が聞こえていた。
 「愛さん……貞《さあ》ちゃんが寝ましたからね、ちょっとお床を敷いてやってちょうだいな」
 われながら驚くほどやさしく愛子に口をきく自分を葉子は見いだした。性《しょう》が合わないというのか、気が合わないというのか、ふだん愛子の顔さえ見れば葉子の気分はくずされてしまうのだった。愛子が何事につけても猫《ねこ》のように従順で少しも情というものを見せないのがことさら憎かった。しかしその夜だけは不思議にもやさしい口をきいた。葉子はそれを意外に思った。愛子がいつものように素直《すなお》に立ち上がって、洟《はな》をすすりながら黙って床を取っている間に、葉子はおりおり往来のほうから振り返って、愛子のしとやかな足音や、綿を薄く入れた夏ぶとんの畳に触れるささやかな音を見入りでもするようにそのほうに目を定めた。そうかと思うとまた今さらのように、食い荒らされた食物や、敷いたままになっている座ぶとんのきたならしく散らかった客間をまじまじと見渡した。父の書棚《しょだな》のあった部分の壁だけが四角に濃い色をしていた。そのすぐそばに西洋暦が昔のままにかけてあった。七月十六日から先ははがされずに残っていた。
 「ねえさま敷けました」
 しばらくしてから、愛子がこうかすかに隣でいった。葉子は、
 「そう御苦労さまよ」
 とまたしとやかに応《こた》えながら、貞世を抱きかかえて立ち上がろうとすると、また頭がぐらぐらッとして、おびただしい鼻血が貞世の胸の合わせ目に流れ落ちた。


    九

 底光りのする雲母色《きららいろ》の雨雲が縫い目なしにどんより[#「どんより」に傍点]と重く空いっぱいにはだかって、本牧《ほんもく》の沖合いまで東京湾の海は物すごいような草色に、小さく波の立ち騒ぐ九月二十五日の午後であった。きのうの風が凪《な》いでから、気温は急に夏らしい蒸し暑さに返って、横浜の市街は、疫病にかかって弱りきった労働者が、そぼふる雨の中にぐったりとあえいでいるように見えた。
 靴《くつ》の先で甲板《かんばん》をこつ[#「こつ」に傍点]こつとたたいて、うつむいてそれをながめながら、帯の間に手をさし込んで、木村への伝言を古藤はひとり言《ごと》のように葉子にいった。葉子はそれに耳を傾けるような様子はしていたけれども、ほんとうはさして注意もせずに、ちょうど自分の目の前に、たくさんの見送り人に囲まれて、応接に暇《いとま》もなげな田川法学|博士《はかせ》の目じりの下がった顔と、その夫人のやせぎすな肩との描く微細な感情の表現を、批評家のような心で鋭くながめやっていた。かなり広いプロメネード・デッキは田川家の家族と見送り人とで縁日のようににぎわっていた。葉子の見送りに来たはずの五十川《いそがわ》女史は先刻から田川夫人のそばに付ききって、世話好きな、人のよい叔母《おば》さんというような態度で、見送り人の半分がたを自身で引き受けて挨拶《あいさつ》していた。葉子のほうへは見向こうとする模様もなかった。葉子の叔母は葉子から二三|間《げん》離れた所に、蜘蛛《くも》のような白痴の子を小婢《こおんな》に背負わして、自分は葉子から預かった手鞄《てかばん》と袱紗《ふくさ》包みとを取り落とさんばかりにぶら下げたまま、花々しい田川家の家族や見送り人の群れを見てあっけに取られていた。葉子の乳母《うば》は、どんな大きな船でも船は船だというようにひどく臆病《おくびょう》そうな青い顔つきをして、サルンの入り口の戸の陰にたたずみながら、四角にたたんだ手ぬぐいをまっ赤《か》になった目の所に絶えず押しあてては、ぬすみ見るように葉子を見やっていた。その他の人々はじみ[#「じみ」に傍点]な一団になって、田川家の威光に圧せられたようにすみのほうにかたまっていた。
 葉子はかねて五十川女史から、田川夫婦が同船するから船の中で紹介してやるといい聞かせられていた。田川といえば、法曹界《ほうそうかい》ではかなり名の聞こえた割合に、どこといって取りとめた特色もない政客ではあるが、その人の名はむしろ夫人のうわさのために世人の記憶にあざやかであった。感受力の鋭敏なそしてなんらかの意味で自分の敵に回さなければならない人に対してことに注意深い葉子の頭には、その夫人の面影《おもかげ》は長い事宿題として考えられていた。葉子の頭に描かれた夫人は我《が》の強い、情の恣《ほしい》ままな、野心の深い割合に手練《タクト》の露骨《ろこつ》な、良人《おっと》を軽く見てややともすると笠《かさ》にかかりながら、それでいて良人から独立する事の到底できない、いわば心《しん》の弱い強がり家《や》ではないかしらんというのだった。葉子は今後ろ向きになった田川夫人の肩の様子を一目見たばかりで、辞書でも繰り当てたように、自分の想像の裏書きをされたのを胸の中でほほえまずにはいられなかった。
 「なんだか話が混雑したようだけれども、それだけいって置いてください」
 ふと葉子は幻想《レェリー》から破れて、古藤のいうこれだけの言葉を捕えた。そして今まで古藤の口から出た伝言の文句はたいてい聞きもらしていたくせに、空々《そらぞら》しげにもなくしんみり[#「しんみり」に傍点]とした様子で、
 「確かに……けれどもあなたあとから手紙ででも詳しく書いてやってくださいましね。間違いでもしているとたいへんですから」
 と古藤をのぞき込むようにしていった。古藤は思わず笑いをもらしながら、「間違うとたいへんですから」という言葉を、時おり葉子の口から聞くチャームに満ちた子供らしい言葉の一つとでも思っているらしかった。そして、
 「何、間違ったって大事はないけれども……だが手紙は書いて、あなたの寝床《バース》の枕《まくら》の下に置いときましたから、部屋《へや》に行ったらどこにでもしまっておいてください。それから、それと一緒にもう一つ……」
 といいかけたが、
 「何しろ忘れずに枕の下を見てください」
 この時突然「田川法学|博士《はかせ》万歳」という大きな声が、桟橋《さんばし》からデッキまでどよみ渡って聞こえて来た。葉子と古藤とは話の腰を折られて互いに不快な顔をしながら、手欄《てすり》から下のほうをのぞいて見ると、すぐ目の下に、そのころ人の少し集まる所にはどこにでも顔を出す轟《とどろき》という剣舞の師匠だか撃剣の師匠だかする頑丈《がんじょう》な男が、大きな五つ紋の黒羽織《くろばおり》に白っぽい鰹魚縞《かつおじま》の袴《はかま》をはいて、桟橋の板を朴《ほお》の木下駄《きげた》で踏み鳴らしながら、ここを先途《せんど》とわめいていた。その声に応じて、デッキまではのぼって来ない壮士|体《てい》の政客や某私立政治学校の生徒が一斉《いっせい》に万歳を繰り返した。デッキの上の外国船客は物珍しさにいち早く、葉子がよりかかっている手欄《てすり》のほうに押し寄せて来たので、葉子は古藤を促して、急いで手欄の折れ曲が
前へ 次へ
全34ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング