かり古藤のさし出す手を握っていた。そして、
 「義一さん」
 と震えを帯びていった声は存分に涙にぬれているように響いた。古藤は声をわななかして、
 「木村はそんな人間じゃありませんよ」
 とだけいって黙ってしまった。
 だめだったと葉子はその途端に思った。葉子の心持ちと古藤の心持ちとはちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]になっているのだ。なんという響きの悪い心だろうと葉子はそれをさげすんだ。しかし様子にはそんな心持ちは少しも見せないで、頭から肩へかけてのなよやかな線を風の前のてっせん[#「てっせん」に傍点]の蔓《つる》のように震わせながら、二三度深々とうなずいて見せた。
 しばらくしてから葉子は顔を上げたが、涙は少しも目にたまってはいなかった。そしていとしい弟でもいたわるようにふとんから立ち上がりざま、
 「すみませんでした事、義一さん、あなた御飯はまだでしたのね」
 といいながら、腹の痛むのをこらえるような姿で古藤の前を通りぬけた。湯でほんのりと赤らんだ素足に古藤の目が鋭くちらっ[#「ちらっ」に傍点]と宿ったのを感じながら、障子を細目にあけて手をならした。
 葉子はその晩不思議に悪魔じみ
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