んだん現在のほうに近づいて来たと思うと、最後にはきっと倉地の姿が現われ出た。
 それが葉子をいらいらさせて、葉子は始めて夢現《ゆめうつつ》の境からほんとうに目ざめて、うるさいものでも払いのけるように、眼窓《めまど》から目をそむけて寝台《バース》を離れた。葉子の神経は朝からひどく興奮していた。スティームで存分に暖まって来た船室の中の空気は息気《いき》苦しいほどだった。
 船に乗ってからろくろく運動もせずに、野菜気《やさいけ》の少ない物ばかりをむさぼり食べたので、身内の血には激しい熱がこもって、毛のさきへまでも通うようだった。寝台《バース》から立ち上がった葉子は瞑眩《めまい》を感ずるほどに上気して、氷のような冷たいものでもひし[#「ひし」に傍点]と抱きしめたい気持ちになった。で、ふらふらと洗面台のほうに行って、ピッチャーの水をなみなみと陶器製の洗面盤にあけて、ずっぷり[#「ずっぷり」に傍点]ひたした手ぬぐいをゆるく絞って、ひやっ[#「ひやっ」に傍点]とするのを構わず、胸をあけて、それを乳房と乳房との間にぐっ[#「ぐっ」に傍点]とあてがってみた。強いはげしい動悸《どうき》が押えている手のひら
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