様子がないので、両家の間は見る見る疎々《うとうと》しいものになってしまった。それでも内田は葉子セけには不思議に愛着を持っていたと見えて、よく葉子のうわさをして、「子猿」だけは引き取って子供同様に育ててやってもいいなぞといったりした。内田は離縁した最初の妻が連れて行ってしまったたった[#「たった」に傍点]一人《ひとり》の娘にいつまでも未練を持っているらしかった。どこでもいいその娘に似たらしい所のある少女を見ると、内田は日ごろの自分を忘れたように甘々《あまあま》しい顔つきをした。人が怖れる割合に、葉子には内田が恐ろしく思えなかったばかりか、その峻烈《しゅんれつ》な性格の奥にとじこめられて小さくよどんだ愛情に触れると、ありきたりの人間からは得られないようななつかしみを感ずる事があった。葉子は母に黙って時々内田を訪れた。内田は葉子が来ると、どんな忙しい時でも自分の部屋《へや》に通して笑い話などをした。時には二人だけで郊外の静かな並み木道などを散歩したりした。ある時内田はもう娘らしく生長した葉子の手を堅く握って、「お前は神様以外の私のただ一人の道伴《みちづ》れだ」などといった。葉子は不思議な甘い心持ちでその言葉を聞いた。その記憶は長く忘れ得なかった。
 それがあの木部との結婚問題が持ち上がると、内田は否応《いやおう》なしにある日葉子を自分の家に呼びつけた。そして恋人の変心を詰《なじ》り責める嫉妬《しっと》深い男のように、火と涙とを目からほとばしらせて、打ちもすえかねぬまでに狂い怒った。その時ばかりは葉子も心から激昂《げきこう》させられた。「だれがもうこんなわがままな人の所に来てやるものか」そう思いながら、生垣《いけがき》の多い、家並《やな》みのまばらな、轍《わだち》の跡のめいりこんだ小石川《こいしかわ》の往来を歩き歩き、憤怒の歯ぎしりを止めかねた。それは夕闇《ゆうやみ》の催した晩秋だった。しかしそれと同時になんだか大切なものを取り落としたような、自分をこの世につり上げてる糸の一つがぷつん[#「ぷつん」に傍点]と切れたような不思議なさびしさの胸に逼《せま》るのをどうする事もできなかった。
 「キリストに水をやったサマリヤの女の事も思うから、この上お前には何もいうまい――他人《ひと》の失望も神の失望もちっと[#「ちっと」に傍点]は考えてみるがいい、……罪だぞ、恐ろしい罪だぞ」
 そんな事があってから五年を過ぎたきょう、郵便局に行って、永田から来た為替《かわせ》を引き出して、定子を預かってくれている乳母《うば》の家に持って行こうと思った時、葉子は紙幣の束を算《かぞ》えながら、ふと内田の最後の言葉を思い出したのだった。物のない所に物を探るような心持ちで葉子は人力車を大塚のほうに走らした。
 五年たっても昔のままの構えで、まばらにさし代えた屋根板と、めっきり[#「めっきり」に傍点]延びた垣添《かきぞ》いの桐《きり》の木とが目立つばかりだった。砂きしみのする格子戸《こうしど》をあけて、帯前を整えながら出て来た柔和な細君《さいくん》と顔を合わせた時は、さすがに懐旧の情が二人の胸を騒がせた。細君は思わず知らず「まあどうぞ」といったが、その瞬間にはっ[#「はっ」に傍点]とためらったような様子になって、急いで内田の書斎にはいって行った。しばらくすると嘆息しながら物をいうような内田の声が途切れ途切れに聞こえた。「上げるのは勝手だがおれが会う事はないじゃないか」といったかと思うと、はげしい音を立てて読みさしの書物をぱたん[#「ぱたん」に傍点]と閉じる音がした。葉子は自分の爪先《つまさき》を見つめながら下くちびるをかんでいた。
 やがて細君がおどおどしながら立ち現われて、まずと葉子を茶の間《ま》に招じ入れた。それと入れ代わりに、書斎では内田が椅子《いす》を離れた音がして、やがて内田はずかずかと格子戸をあけて出て行ってしまった。
 葉子は思わずふらふらッと立ち上がろうとするのを、何気ない顔でじっ[#「じっ」に傍点]とこらえた。せめては雷のような激しいその怒りの声に打たれたかった。あわよくば自分も思いきりいいたい事をいってのけたかった。どこに行っても取りあいもせず、鼻であしらい、鼻であしらわれ慣れた葉子には、何か真味な力で打ちくだかれるなり、打ちくだくなりして見たかった。それだったのに思い入って内田の所に来て見れば、内田は世の常の人々よりもいっそう冷ややかに酷《むご》く思われた。
 「こんな事をいっては失礼ですけれどもね葉子さん、あなたの事をいろいろにいって来る人があるもんですからね、あのとおりの性質でしょう。どうもわたしにはなんともいいなだめようがないのですよ。内田があなたをお上げ申したのが不思議なほどだとわたし思いますの。このごろはことさらだれにもいわれないよう
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