に対しても同様の交際を続ける必要のないのを遺憾に思う。明晩(すなわちその夜)のお招きにも出席しかねる、と剣《けん》もほろろに書き連ねて、追伸《ついしん》に、先日あなたから一|言《ごん》の紹介もなく訪問してきた素性《すじょう》の知れぬ青年の持参した金はいらないからお返しする。良人《おっと》の定まった女の行動は、申すまでもないが慎むが上にもことに慎むべきものだと私どもは聞き及んでいる。ときっぱり書いて、その金額だけの為替《かわせ》が同封してあった。葉子が古藤を連れて横浜に行ったのも、仮病《けびょう》をつかって宿屋に引きこもったのも、実をいうと船商売をする人には珍しい厳格なこの永田に会うめんどうを避けるためだった。葉子は小さく舌打ちして、為替ごと手紙を引き裂こうとしたが、ふと思い返して、丹念《たんねん》に墨をすりおろして一字一字考えて書いたような手紙だけずた[#「ずた」に傍点]ずたに破いて屑《くず》かごに突っ込んだ。
 葉子は地味《じみ》な他行衣《よそいき》に寝衣《ねまき》を着かえて二階を降りた。朝食は食べる気がなかった。妹たちの顔を見るのも気づまりだった。
 姉妹三人のいる二階の、すみからすみまできちん[#「きちん」に傍点]と小ぎれいに片付いているのに引きかえて、叔母《おば》一家の住まう下座敷は変に油ぎってよごれていた。白痴の子が赤ん坊同様なので、東の縁に干してある襁褓《むつき》から立つ塩臭いにおいや、畳の上に踏みにじられたままこびりついている飯粒などが、すぐ葉子の神経をいらいらさせた。玄関に出て見ると、そこには叔父《おじ》が、襟《えり》のまっ黒に汗じんだ白い飛白《かすり》を薄寒そうに着て、白痴の子を膝《ひざ》の上に乗せながら、朝っぱらから柿《かき》をむいてあてがっていた。その柿の皮があかあかと紙くずとごったになって敷き石の上に散っていた。葉子は叔父にちょっと挨拶《あいさつ》をして草履《ぞうり》をさがしながら、
 「愛さんちょっとここにおいで。玄関が御覧、あんなによごれているからね、きれいに掃除《そうじ》しておいてちょうだいよ。――今夜はお客様もあるんだのに……」
 と駆けて来た愛子にわざとつんけん[#「つんけん」に傍点]いうと、叔父は神経の遠くのほうであてこすられたのを感じたふうで、
 「おヽ、それはわしがしたんじゃで、わしが掃除しとく。構《かも》うてくださるな、おいお俊《しゅん》――お俊というに、何しとるぞい」
 とのろま[#「のろま」に傍点]らしく呼び立てた。帯《おび》しろ裸《はだか》の叔母がそこにやって来て、またくだらぬ口論《くちいさかい》をするのだと思うと、泥《どろ》の中でいがみ合う豚かなんぞを思い出して、葉子は踵《かかと》の塵《ちり》を払わんばかりにそこそこ家を出た。細い釘店《くぎだな》の往来は場所|柄《がら》だけに門並《かどな》みきれいに掃除されて、打ち水をした上を、気のきいた風体《ふうてい》の男女が忙しそうに往《ゆ》き来《き》していた。葉子は抜け毛の丸めたのや、巻煙草《まきたばこ》の袋のちぎれたのが散らばって箒《ほうき》の目一つない自分の家の前を目をつぶって駆けぬけたいほどの思いをして、ついそばの日本銀行にはいってありったけの預金を引き出した。そしてその前の車屋で始終乗りつけのいちばん立派な人力車を仕立てさして、その足で買い物に出かけた。妹たちに買い残しておくべき衣服地や、外国人向きの土産品《みやげひん》や、新しいどっしり[#「どっしり」に傍点]したトランクなどを買い入れると、引き出した金はいくらも残ってはいなかった。そして午後の日がやや傾きかかったころ、大塚窪町《おおつかくぼまち》に住む内田《うちだ》という母の友人を訪れた。内田は熱心なキリスト教の伝道者として、憎む人からは蛇蝎《だかつ》のように憎まれるし、好きな人からは予言者のように崇拝されている天才|肌《はだ》の人だった。葉子は五つ六つのころ、母に連れられて、よくその家に出入りしたが、人を恐れずにぐん[#「ぐん」に傍点]ぐん思った事をかわいらしい口もとからいい出す葉子の様子が、始終人から距《へだ》てをおかれつけた内田を喜ばしたので、葉子が来ると内田は、何か心のこだわった時でもきげんを直して、窄《せま》った眉根《まゆね》を少しは開きながら、「また子猿《こざる》が来たな」といって、そのつやつやしたおかっぱ[#「おかっぱ」に傍点]をなで回したりなぞした。そのうち母がキリスト教婦人同盟の事業に関係して、たちまちのうちにその牛耳《ぎゅうじ》を握り、外国宣教師だとか、貴婦人だとかを引き入れて、政略がましく事業の拡張に奔走するようになると、内田はすぐきげんを損じて、早月親佐《さつきおやさ》を責めて、キリストの精神を無視した俗悪な態度だといきまいたが、親佐がいっこうに取り合う
前へ 次へ
全85ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング