」に傍点]ってしまっていつまでも晴れなかった。葉子は口びるだけに軽い笑いを浮かべながら、胆汁《たんじゅう》のみなぎったようなその顔を下目で快げにまじまじとながめやった。そして苦い清涼剤でも飲んだように胸のつかえを透《す》かしていた。
 やがて事務長が座を立つと、葉子は、眉《まゆ》をひそめて快からぬ顔をした木村を、しいてまたもとのように自分のそば近くすわらせた。
 「いやなやつっちゃないの。あんな話でもしていないと、ほかになんにも話の種《たね》のない人ですの……あなたさぞ御迷惑でしたろうね」
 といいながら、事務長にしたように上目に媚《こ》びを集めてじっ[#「じっ」に傍点]と木村を見た。しかし木村の感情はひどくほつれて、容易に解ける様子はなかった。葉子を故意に威圧しようとたくらむわざとな改まりかたも見えた。葉子はいたずら者らしく腹の中でくすくす笑いながら、木村の顔を好意をこめた目つきでながめ続けた。木村の心の奥には何かいい出してみたいくせに、なんとなく腹の中が見すかされそうで、いい出しかねている物があるらしかったが、途切れがちながら話が小半時《こはんとき》も進んだ時、とてつ[#「とてつ」に傍点]もなく、
 「事務長は、なんですか、夜になってまであなたの部屋《へや》に話しに来る事があるんですか」
 とさりげなく尋ねようとするらしかったが、その語尾はわれにもなく震えていた。葉子は陥穽《わな》にかかった無知な獣《けもの》を憫《あわれ》み笑うような微笑を口びるに浮かべながら、
 「そんな事がされますものかこの小さな船の中で。考えてもごらんなさいまし。さきほどわたしがいったのは、このごろは毎晩夜になると暇なので、あの人たちが食堂に集まって来て、酒を飲みながら大きな声でいろんなくだらない話をするんですの。それがよくここまで聞こえるんです。それにゆうべあの人が来なかったからからか[#「からか」に傍点]ってやっただけなんですのよ。このごろは質《たち》の悪い女までが隊を組むようにしてどっさり[#「どっさり」に傍点]船に来て、それは騒々しいんですの。……ほゝゝゝあなたの苦労性ったらない」
 木村は取りつく島を見失って、二の句がつげないでいた。それを葉子はかわいい目を上げて、無邪気な顔をして見やりながら笑っていた。そして事務長がはいって来た時途切らした話の糸口をみごとに忘れずに拾い上げて、東京を発《た》った時の模様をまた仔細《しさい》に話しつづけた。
 こうしたふうで葛藤《かっとう》は葉子の手一つで勝手に紛らされたりほごされたりした。
 葉子は一人《ひとり》の男をしっかり[#「しっかり」に傍点]と自分の把持《はじ》の中に置いて、それが猫《ねこ》が鼠《ねずみ》でも弄《な》ぶるように、勝手に弄《な》ぶって楽しむのをやめる事ができなかったと同時に、時々は木村の顔を一目見たばかりで、虫唾《むしず》が走るほど厭悪《けんお》の情に駆り立てられて、われながらどうしていいかわからない事もあった。そんな時にはただいちずに腹痛を口実にして、一人になって、腹立ち紛れにあり合わせたものを取って床の上にほうったりした。もう何もかもいってしまおう。弄《もてあそ》ぶにも足らない木村を近づけておくには当たらない事だ。何もかも明らかにして気分だけでもさっぱり[#「さっぱり」に傍点]したいとそう思う事もあった。しかし同時に葉子は戦術家の冷静さをもって、実際問題を勘定に入れる事も忘れはしなかった。事務長をしっかり[#「しっかり」に傍点]自分の手の中に握るまでは、早計に木村を逃がしてはならない。「宿屋きめずに草鞋《わらじ》を脱ぐ」……母がこんな事を葉子の小さい時に教えてくれたのを思い出したりして、葉子は一人で苦笑《にがわら》いもした。
 そうだ、まだ木村を逃がしてはならぬ。葉子は心の中に書き記《しる》してでも置くように、上目を使いながらこんな事を思った。
 またある時葉子の手もとに米国の切手のはられた手紙が届いた事があった。葉子は船へなぞあてて手紙をよこす人はないはずだがと思って開いて見ようとしたが、また例のいたずらな心が動いて、わざと木村に開封させた。その内容がどんなものであるかの想像もつかないので、それを木村に読ませるのは、武器を相手に渡して置いて、自分は素手《すで》で格闘するようなものだった。葉子はそこに興味を持った。そしてどんな不意な難題が持ち上がるだろうかと、心をときめかせながら結果を待った。その手紙は葉子に簡単な挨拶《あいさつ》を残したまま上陸した岡から来たものだった。いかにも人柄に不似合いな下手《へた》な字体で、葉子がひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると上陸を見合わせてそのまま帰るという事を聞いたが、もしそうなったら自分も断然帰朝する。気違いじみたしわざとお笑いになるかもしれ
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