たんですけれども、わたしのほうも御承知のとおりでしょう。今度こっちに来るにつけても、それは困って、ありったけのものを払ったりして、ようやく間に合わせたくらいだったもんですから……」
なおいおうとするのを木村は忙《せわ》しく打ち消すようにさえぎって、
「それは充分わかっています」
と顔を上げた拍子《ひょうし》に涙のしずくがぽたり[#「ぽたり」に傍点]と鼻の先からズボンの上に落ちたのを見た。葉子は、泣いたために妙に脹《は》れぼったく赤くなって、てらてらと光る木村の鼻の先が急に気になり出して、悪いとは知りながらも、ともするとそこへばかり目が行った。
木村は何からどう話し出していいかわからない様子だった。
「わたしの電報をビクトリヤで受け取ったでしょうね」
などともてれ[#「てれ」に傍点]隠しのようにいった。葉子は受け取った覚えもないくせにいいかげんに、
「えゝ、ありがとうございました」
と答えておいた。そして一時《いっとき》も早くこんな息気《いき》づまるように圧迫して来る二人《ふたり》の間の心のもつれからのがれる術《すべ》はないかと思案していた。
「今始めて事務長から聞いたんですが、あなたが病気だったといってましたが、いったいどこが悪かったんです。さぞ困ったでしょうね。そんな事とはちっとも知らずに、今が今まで、祝福された、輝くようなあなたを迎えられるとばかり思っていたんです。あなたはほんとうに試練の受けつづけというもんですね。どこでした悪いのは」
葉子は、不用意にも女を捕えてじかづけ[#「じかづけ」に傍点]に病気の種類を聞きただす男の心の粗雑さを忌みながら、当たらずさわらず、前からあった胃病が、船の中で食物と気候との変わったために、だんだん嵩《こう》じて来て起きられなくなったようにいい繕った。木村は痛ましそうに眉《まゆ》を寄せながら聞いていた。
葉子はもうこんな程々《ほどほど》な会話には堪《た》えきれなくなって来た。木村の顔を見るにつけて思い出される仙台《せんだい》時代や、母の死というような事にもかなり悩まされるのをつらく思った。で、話の調子を変えるためにしいていくらか快活を装って、
「それはそうとこちらの御事業はいかが」
と仕事とか様子とかいう代わりに、わざと事業という言葉をつかってこう尋ねた。
木村の顔つきは見る見る変わった。そして胸のポッケットにのぞかせてあった大きなリンネルのハンケチを取り出して、器用に片手でそれをふわり[#「ふわり」に傍点]と丸めておいて、ちん[#「ちん」に傍点]と鼻をかんでから、また器用にそれをポケットに戻《もど》すと、
「だめです」
といかにも絶望的な調子でいったが、その目はすでに笑っていた。サンフランシスコの領事が在留日本人の企業に対して全然冷淡で盲目であるという事、日本人間に嫉視《しっし》が激しいので、サンフランシスコでの事業の目論見《もくろみ》は予期以上の故障にあって大体失敗に終わった事、思いきった発展はやはり想像どおりの米国の西部よりも中央、ことにシカゴを中心として計画されなければならぬという事、幸いに、サンフランシスコで自分の話に乗ってくれるある手堅いドイツ人に取り次ぎを頼んだという事、シヤトルでも相当の店を見いだしかけているという事、シカゴに行ったら、そこで日本の名誉領事をしているかなりの鉄物商の店にまず住み込んで米国における取り引きの手心をのみ込むと同時に、その人の資本の一部を動かして、日本との直《じか》取り引きを始める算段であるという事、シカゴの住まいはもう決まって、借りるべきフラットの図面まで取り寄せてあるという事、フラットは不経済のようだけれども部屋《へや》の明いた部分を又貸《またが》しをすれば、たいして高いものにもつかず、住まい便利は非常にいいという事……そういう点にかけては、なかなか綿密に行き届いたもので、それをいかにも企業家らしい説服的な口調で順序よく述べて行った。会話の流れがこう変わって来ると、葉子は始めて泥《どろ》の中から足を抜き上げたような気軽な心持ちになって、ずっ[#「ずっ」に傍点]と木村を見つめながら、聞くともなしにその話に聞き耳を立てていた。木村の容貌《ようぼう》はしばらくの間に見違えるほど refine されて、元から白かったその皮膚は何か特殊な洗料で底光りのするほどみがきがかけられて、日本人とは思えぬまでなめらかなのに、油できれいに分けた濃い黒髪は、西洋人の金髪にはまた見られぬような趣のある対照をその白皙《はくせき》の皮膚に与えて、カラーとネクタイの関係にも人に気のつかぬ凝りかたを見せていた。
「会いたてからこんな事をいうのは恥ずかしいですけれども、実際今度という今度は苦闘しました。ここまで迎いに来るにもろくろく旅費がない騒ぎで
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