んだ倉地の手をすりぬけた。そしていち早く部屋《へや》を横筋かいに戸口まで逃げのびて、ハンドルに手をかけながら、
「あなたはけさこの戸に鍵《かぎ》をおかけになって、……それは手籠《てご》めです……わたし……」
といって少し情に激してうつむいてまた何かいい続けようとするらしかったが、突然戸をあけて出て行ってしまった。
取り残された倉地はあきれてしばらく立っているようだったが、やがて英語で乱暴な呪詛《じゅそ》を口走りながら、いきなり部屋を出て葉子のあとを追って来た。そしてまもなく葉子の部屋の所に来てノックした。葉子は鍵をかけたまま黙って答えないでいた。事務長はなお二三度ノックを続けていたが、いきなり何か大声で物をいいながら船医の興録の部屋にはいるのが聞こえた。
葉子は興録が事務長のさしがね[#「さしがね」に傍点]でなんとかいいに来るだろうとひそかに心待ちにしていた。ところがなんともいって来ないばかりか、船医室からは時々あたりをはばからない高笑いさえ聞こえて、事務長は容易にその部屋《へや》を出て行きそうな気配《けはい》もなかった。葉子は興奮に燃え立ついらいらした心でそこにいる事務長の姿をいろいろ想像していた。ほかの事は一つも頭の中にははいって来なかった。そしてつくづく自分の心の変わりかたの激しさに驚かずにはいられなかった。「定子! 定子!」葉子は隣にいる人を呼び出すような気で小さな声を出してみた。その最愛の名を声にまで出してみても、その響きの中には忘れていた夢を思い出したほどの反応《こたえ》もなかった。どうすれば人の心というものはこんなにまで変わり果てるものだろう。葉子は定子をあわれむよりも、自分の心をあわれむために涙ぐんでしまった。そしてなんの気なしに小卓の前に腰をかけて、大切なものの中にしまっておいた、そのころ日本では珍しいファウンテン・ペンを取り出して、筆の動くままにそこにあった紙きれに字を書いてみた。
[#ここより引用文、本文より一字下げ]
「女の弱き心につけ入りたもうはあまりに酷《むご》きお心とただ恨めしく存じ参らせ候《そろ》妾《わらわ》の運命はこの船に結ばれたる奇《く》しきえにしや候《そうら》いけん心がらとは申せ今は過去のすべて未来のすべてを打ち捨ててただ目の前の恥ずかしき思いに漂うばかりなる根なし草の身となり果て参らせ候を事もなげに見やりたもうが恨めしく恨めしく死」
[#引用文ここまで]
となんのくふうもなく、よく意味もわからないで一瀉千里《いっしゃせんり》に書き流して来たが、「死」という字に来ると、葉子はペンも折れよといらいらしくその上を塗り消した。思いのままを事務長にいってやるのは、思い存分自分をもてあそべといってやるのと同じ事だった。葉子は怒りに任せて余白を乱暴にいたずら書きでよごしていた。
と、突然船医の部屋から高々と倉地の笑い声が聞こえて来た。葉子はわれにもなく頭《つむり》を上げて、しばらく聞き耳を立ててから、そっ[#「そっ」に傍点]と戸口に歩み寄ったが、あとはそれなりまた静かになった。
葉子は恥ずかしげに座に戻《もど》った。そして紙の上に思い出すままに勝手な字を書いたり、形の知れない形を書いてみたりしながら、ずきん[#「ずきん」に傍点]ずきんと痛む頭をぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と肘《ひじ》をついた片手で押えてなんという事もなく考えつづけた。
念が届けば木村にも定子にもなんの用があろう。倉地の心さえつかめばあとは自分の意地《いじ》一つだ。そうだ。念が届かなければ……念が届かなければ……届かなければあらゆるものに用がなくなるのだ。そうしたら美しく死のうねえ。……どうして……私はどうして……けれども……葉子はいつのまにか純粋に感傷的になっていた。自分にもこんなおぼこ[#「おぼこ」に傍点]な思いが潜んでいたかと思うと、抱いてなでさすってやりたいほど自分がかわゆくもあった。そして木部と別れて以来絶えて味わわなかったこの甘い情緒に自分からほだされおぼれて、心中《しんじゅう》でもする人のような、恋に身をまかせる心安さにひたりながら小机に突っ伏してしまった。
やがて酔いつぶれた人のように頭《つむり》をもたげた時は、とうに日がかげって部屋の中にははなやかに電燈がともっていた。
いきなり船医の部屋の戸が乱暴に開かれる音がした。葉子ははっ[#「はっ」に傍点]と思った。その時葉子の部屋の戸にどたり[#「どたり」に傍点]と突きあたった人の気配がして、「早月《さつき》さん」と濁って塩がれた事務長の声がした。葉子は身のすくむような衝動を受けて、思わず立ち上がってたじろぎながら部屋のすみに逃げかくれた。そしてからだじゅうを耳のようにしていた。
「早月《さつき》さんお願いだ。ちょっとあけてください」
葉子は手早く小
前へ
次へ
全85ページ中65ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング