そのあとについて、薄暗い階子段《はしごだん》にかかると男におぶいかかるようにしてこぜわしく降りて行った。そして機関室と船員室との間にある例の暗い廊下を通って、事務長が自分の部屋の戸をあけた時、ぱっ[#「ぱっ」に傍点]と明るくなった白い光の中に、nonchalant な diabolic な男の姿を今さらのように一種の畏《おそ》れとなつかしさとをこめて打ちながめた。
部屋にはいると事務長は、田川夫人の言葉でも思い出したらしくめんどうくさそうに吐息《といき》一つして、帳簿を事務テーブルの上にほうりなげておいて、また戸から頭だけつき出して、「ボーイ」と大きな声で呼び立てた。そして戸をしめきると、始めてまとも[#「まとも」に傍点]に葉子に向きなおった。そして腹をゆすり上げて続けさまに思い存分笑ってから、
「え」と大きな声で、半分は物でも尋ねるように、半分は「どうだい」といったような調子でいって、足を開いて akimbo をして突っ立ちながら、ちょいと無邪気に首をかしげて見せた。
そこにボーイが戸の後ろから顔だけ出した。
「シャンペンだ。船長の所にバーから持って来《こ》さしたのが、二三本残ってるよ。十の字三つぞ(大至急という軍隊用語)。……何がおかしいかい」
事務長は葉子のほうを向いたままこういったのであるが、実際その時ボーイは意味ありげににやにや[#「にやにや」に傍点]薄笑いをしていた。
あまりに事もなげな倉地の様子を見ていると葉子は自分の心の切《せつ》なさに比べて、男の心を恨めしいものに思わずにいられなくなった。けさの記憶のまだ生々《なまなま》しい部屋《へや》の中を見るにつけても、激しく嵩《たか》ぶって来る情熱が妙にこじれて、いても立ってもいられないもどかしさが苦しく胸に逼《せま》るのだった。今まではまるきり眼中になかった田川夫人も、三等の女客の中で、処女とも妻ともつかぬ二人《ふたり》の二十女も、果ては事務長にまつわりつくあの小娘のような岡までが、写真で見た事務長の細君と一緒になって、苦しい敵意を葉子の心にあおり立てた。ボーイにまで笑いものにされて、男の皮を着たこの好色の野獣のなぶりものにされているのではないか。自分の身も心もただ一息にひしぎつぶすかと見えるあの恐ろしい力は、自分を征服すると共にすべての女に対しても同じ力で働くのではないか。そのたくさんの女の中の影の薄い一人《ひとり》の女として彼は自分を扱っているのではないか。自分には何物にも代え難《がた》く思われるけさの出来事があったあとでも、ああ平気でいられるそののんきさはどうしたものだろう。葉子は物心がついてから始終自分でも言い現わす事のできない何物かを逐《お》い求めていた。その何物かは葉子のすぐ手近にありながら、しっかり[#「しっかり」に傍点]とつかむ事はどうしてもできず、そのくせいつでもその力の下に傀儡《かいらい》のようにあてもなく動かされていた。葉子はけさの出来事以来なんとなく思いあがっていたのだ。それはその何物かがおぼろげながら形を取って手に触れたように思ったからだ。しかしそれも今から思えば幻影に過ぎないらしくもある。自分に特別な注意も払っていなかったこの男の出来心に対して、こっちから進んで情をそそるような事をした自分はなんという事をしたのだろう。どうしたらこの取り返しのつかない自分の破滅を救う事ができるのだろうと思って来ると、一秒でもこのいまわしい記憶のさまよう部屋の中にはいたたまれないように思え出した。しかし同時に事務長は断ちがたい執着となって葉子の胸の底にこびりついていた。この部屋をこのままで出て行くのは死ぬよりもつらい事だった。どうしてもはっきり[#「はっきり」に傍点]と事務長の心を握るまでは……葉子は自分の心の矛盾に業《ごう》を煮やしながら、自分をさげすみ果てたような絶望的な怒りの色を口びるのあたりに宿して、黙ったままA鬱《いんうつ》に立っていた。今までそわそわと小魔《しょうま》のように葉子の心をめぐりおどっていたはなやかな喜び――それはどこに行ってしまったのだろう。
事務長はそれに気づいたのか気がつかないのか、やがてよりかかりのないまるい事務いすに尻《しり》をすえて、子供のような罪のない顔をしながら、葉子を見て軽く笑っていた。葉子はその顔を見て、恐ろしい大胆な悪事を赤児《あかご》同様の無邪気さで犯しうる質《たち》の男だと思った。葉子はこんな無自覚な状態にはとてもなっていられなかった。一足ずつ先《さき》を越されているのかしらんという不安までが心の平衡をさらに狂わした。
「田川博士は馬鹿《ばか》ばかで、田川の奥さんは利口ばかというんだ。はゝゝゝゝ」
そういって笑って、事務長は膝《ひざ》がしらをはっし[#「はっし」に傍点]と打った手をかえして、机
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