な口調で葉子はこう小さくつぶやいた。「構うものか」そう思いながら葉子は事務長の目使いにも無頓着《むとんじゃく》に、快活な足どりでいそいそと田川夫妻のほうに近づいて行った。それを事務長もどうすることもできなかった。葉子は三人の前に来ると軽く腰をまげて後《おく》れ毛《げ》をかき上げながら顔じゅうを蠱惑的《こわくてき》なほほえみにして挨拶《あいさつ》した。田川博士の頬《ほお》にはいち早くそれに応ずる物やさしい表情が浮かぼうとしていた。
「あなたはずいぶんな乱暴をなさる方《かた》ですのね」
いきなり震えを帯びた冷ややかな言葉が田川夫人から葉子に容赦もなく投げつけられた。それは底意地の悪い挑戦的《ちょうせんてき》な調子で震えていた。田川|博士《はかせ》はこのとっさの気まずい場面を繕うため何か言葉を入れてその不愉快な緊張をゆるめようとするらしかったが、夫人の悪意はせき立って募るばかりだった。しかし夫人は口に出してはもうなんにもいわなかった。
女の間に起こる不思議な心と心との交渉から、葉子はなんという事なく、事務長と自分との間にけさ起こったばかりの出来事を、輪郭だけではあるとしても田川夫人が感づいているなと直覚した。ただ一言《ひとこと》ではあったけれども、それは検疫官とトランプをいじった事を責めるだけにしては、激し過ぎ、悪意がこめられ過ぎていることを直覚した。今の激しい言葉は、その事を深く根に持ちながら、検疫医に対する不謹慎な態度をたしなめる言葉のようにして使われているのを直覚した。葉子の心のすみからすみまでを、溜飲《りゅういん》の下がるような小気味よさが小おどりしつつ走《は》せめぐった。葉子は何をそんなに事々しくたしなめられる事があるのだろうというような少ししゃあ[#「しゃあ」に傍点]しゃあした無邪気な顔つきで、首をかしげながら夫人を見守った。
「航海中はとにかくわたし葉子さんのお世話をお頼まれ申しているんですからね」
初めはしとやかに落ち付いていうつもりらしかったが、それがだんだん激して途切れがちな言葉になって、夫人はしまいには激動から息気《いき》をさえはずましていた。その瞬間に火のような夫人のひとみと、皮肉に落ち付き払った葉子のひとみとが、ぱったり出っくわして小ぜり合いをしたが、また同時に蹴返《けかえ》すように離れて事務長のほうに振り向けられた。
「ごもっともです」
事務長は虻《あぶ》に当惑した熊《くま》のような顔つきで、柄《がら》にもない謹慎を装いながらこう受け答えた。それから突然本気な表情に返って、
「わたしも事務長であって見れば、どのお客様に対しても責任があるのだで、御迷惑になるような事はせんつもりですが」
ここで彼は急に仮面を取り去ったようににこにこし出した。
「そうむきになるほどの事でもないじゃありませんか。たかが早月《さつき》さんに一度か二度|愛嬌《あいきょう》をいうていただいて、それで検疫の時間が二時間から違うのですもの。いつでもここで四時間の以上もむだにせにゃならんのですて」
田川夫人がますますせき込んで、矢継《やつ》ぎ早《ばや》にまくしかけようとするのを、事務長は事もなげに軽々とおっかぶせて、
「それにしてからがお話はいかがです、部屋《へや》で伺いましょうか。ほかのお客様の手前もいかがです。博士《はかせ》、例のとおり狭っこい所ですが、甲板《かんぱん》ではゆっくりもできませんで、あそこでお茶でも入れましょう。早月さんあなたもいかがです」
と笑い笑い言ってからくるりッ[#「くるりッ」に傍点]と葉子のほうに向き直って、田川夫妻には気が付かないように頓狂《とんきょう》な顔をちょっとして見せた。
横浜で倉地のあとに続いて船室への階子段《はしごだん》を下る時始めて嗅《か》ぎ覚えたウイスキーと葉巻とのまじり合ったような甘たるい一種の香《にお》いが、この時かすかに葉子の鼻をかすめたと思った。それをかぐと葉子の情熱のほむらが一時にあおり立てられて、人前では考えられもせぬような思いが、旋風《つむじかぜ》のごとく頭の中をこそいで通るのを覚えた。男にはそれがどんな印象を与えたかを顧みる暇もなく、田川夫妻の前ということもはばからずに、自分では醜いに違いないと思うような微笑が、覚えず葉子の眉《まゆ》の間に浮かび上がった。事務長は小むずかしい顔になって振り返りながら、
「いかがです」ともう一度田川夫妻を促した。しかし田川博士は自分の妻のおとなげないのをあわれむ物わかりのいい紳士という態度を見せて、態《てい》よく事務長にことわりをいって、夫人と一緒にそこを立ち去った。
「ちょっといらっしゃい」
田川夫妻の姿が見えなくなると、事務長はろくろく葉子を見むきもしないでこういいながら先に立った。葉子は小娘のようにいそいそと
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