》を持っているのがあった。その胸に書かれた「中将湯《ちゅうじょうとう》」という文字を、何《なに》げなしに一字ずつ読み下すと、彼女は突然私生児の定子の事を思い出した。そしてその父なる木部の姿は、かかる乱雑な連想の中心となって、またまざまざと焼きつくように現われ出た。
その現われ出た木部の顔を、いわば心の中の目で見つめているうちに、だんだんとその鼻の下から髭《ひげ》が消えうせて行って、輝くひとみの色は優しい肉感的な温《あたた》かみを持ち出して来た。汽車は徐々に進行をゆるめていた。やや荒れ始めた三十男の皮膚の光沢《つや》は、神経的な青年の蒼白《あおじろ》い膚の色となって、黒く光った軟《やわ》らかい頭《つむり》の毛がきわ立って白い額をなでている。それさえがはっきり[#「はっきり」に傍点]見え始めた。列車はすでに川崎《かわさき》停車場のプラットフォームにはいって来た。葉子の頭の中では、汽車が止まりきる前に仕事をし遂《おお》さねばならぬというふうに、今見たばかりの木部の姿がどんどん若やいで行った。そして列車が動かなくなった時、葉子はその人のかたわらにでもいるように恍惚《うっとり》とした顔つきで、思わず知らず左手を上げて――小指をやさしく折り曲げて――軟《やわ》らかい鬢《びん》の後《おく》れ毛《げ》をかき上げていた。これは葉子が人の注意をひこうとする時にはいつでもする姿態《しな》である。
この時、繰り戸がけたたましくあいたと思うと、中から二三人の乗客がどやどやと現われ出て来た。
しかもその最後から、涼しい色合いのインバネスを羽織《はお》った木部が続くのを感づいて、葉子の心臓は思わずはっ[#「はっ」に傍点]と処女の血を盛《も》ったようにときめいた。木部が葉子の前まで来てすれすれにそのそばを通り抜けようとした時、二人《ふたり》の目はもう一度しみじみと出あった。木部の目は好意を込めた微笑にひたされて、葉子の出ようによっては、すぐにも物をいい出しそうに口びるさえ震えていた。葉子も今まで続けていた回想の惰力に引かされて、思わずほほえみかけたのであったが、その瞬間|燕返《つばめがえ》しに、見も知りもせぬ路傍の人に与えるような、冷刻な驕慢《きょうまん》な光をそのひとみから射出《いだ》したので、木部の微笑は哀れにも枝を離れた枯れ葉のように、二人の間をむなしくひらめいて消えてしまった。葉子は木部のあわてかたを見ると、車内で彼から受けた侮辱にかなり小気味よく酬《むく》い得たという誇りを感じて、胸の中がややすがすがしくなった。木部はやせたその右肩を癖のように怒らしながら、急ぎ足に濶歩《かっぽ》して改札口の所に近づいたが、切符を懐中から出すために立ち止まった時、深い悲しみの色を眉《まゆ》の間にみなぎらしながら、振り返ってじっ[#「じっ」に傍点]と葉子の横顔に目を注いだ。葉子はそれを知りながらもとより侮蔑《ぶべつ》の一瞥《いちべつ》をも与えなかった。
木部が改札口を出て姿が隠れようとした時、今度は葉子の目がじっ[#「じっ」に傍点]とその後ろ姿を逐《お》いかけた。木部が見えなくなった後も、葉子の視線はそこを離れようとはしなかった。そしてその目にはさびしく涙がたまっていた。
「また会う事があるだろうか」
葉子はそぞろに不思議な悲哀を覚えながら心の中でそういっていたのだった。
四
列車が川崎駅を発すると、葉子はまた手欄《てすり》によりかかりながら木部の事をいろいろと思いめぐらした。やや色づいた田圃《たんぼ》の先に松並み木が見えて、その間《あいだ》から低く海の光る、平凡な五十三|次風《つぎふう》な景色が、電柱で句読《くとう》を打ちながら、空洞《うつろ》のような葉子の目の前で閉じたり開いたりした。赤とんぼも飛びかわす時節で、その群れが、燧石《ひうちいし》から打ち出される火花のように、赤い印象を目の底に残して乱れあった。いつ見ても新開地じみて見える神奈川《かながわ》を過ぎて、汽車が横浜の停車場に近づいたころには、八時を過ぎた太陽の光が、紅葉坂《もみじざか》の桜並み木を黄色く見せるほどに暑く照らしていた。
煤煙《ばいえん》でまっ黒にすすけた煉瓦《れんが》壁の陰に汽車が停《と》まると、中からいちばん先に出て来たのは、右手にかのオリーヴ色の包み物を持った古藤だった。葉子はパラソルを杖《つえ》に弱々しくデッキを降りて、古藤に助けられながら改札口を出たが、ゆるゆる歩いている間に乗客は先《さき》を越してしまって、二人《ふたり》はいちばんあとになっていた。客を取りおくれた十四五人の停車場づきの車夫が、待合部屋《まちあいべや》の前にかたまりながら、やつれて見える葉子に目をつけて何かとうわさし合うのが二人の耳にもはいった。「むすめ」「らしゃめん」というような言葉さえそ
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