造り声の中にかすかな親しみをこめて見せた言葉も、肉感的に厚みを帯びた、それでいて賢《さか》しげに締まりのいい二つの口びるにふさわしいものとなっていた。
 「きょう船が検疫所に着くんです、きょうの午後に。ところが検疫医がこれなんだ」
 事務長は朋輩《ほうばい》にでも打ち明けるように、大きな食指を鍵形《かぎがた》にまげて、たぐるような格好をして見せた。葉子がちょっと判じかねた顔つきをしていると、
 「だから飲ましてやらんならんのですよ。それからポーカーにも負けてやらんならん。美人がいれば拝ましてもやらんならん」
 となお手まねを続けながら、事務長は枕《まくら》もとにおいてある頑固《がんこ》なパイプを取り上げて、指の先で灰を押しつけて、吸い残りの煙草《たばこ》に火をつけた。
 「船をさえ見ればそうした悪戯《わるさ》をしおるんだから、海|坊主《ぼうず》を見るようなやつです。そういうと頭のつるり[#「つるり」に傍点]とした水母《くらげ》じみた入道らしいが、実際は元気のいい意気な若い医者でね。おもしろいやつだ。一つ会ってごらん。わたしでからがあんな所に年じゅう置かれればああなるわさ」
 といって、右手に持ったパイプを膝《ひざ》がしらに置き添えて、向き直ってまともに葉子を見た。しかしその時葉子は倉地の言葉にはそれほど注意を払ってはいない様子を見せていた。ちょうど葉子の向こう側にある事務テーブルの上に飾られた何枚かの写真を物珍しそうにながめやって、右手の指先を軽く器用に動かしながら、煙草《たばこ》の煙が紫色に顔をかすめるのを払っていた。自分を囮《おとり》にまで使おうとする無礼もあなたなればこそなんともいわずにいるのだという心を事務長もさすがに推《すい》したらしい。しかしそれにも係わらず事務長は言いわけ一ついわず、いっこう平気なもので、きれいな飾り紙のついた金口《きんぐち》煙草の小箱を手を延ばして棚《たな》から取り上げながら、
 「どうです一本」
 と葉子の前にさし出した。葉子は自分が煙草をのむかのまぬかの問題をはじき飛ばすように、
 「あれはどなた?」と写真の一つに目を定めた。
 「どれ」
 「あれ」葉子はそういったままで指さしはしない。
 「どれ」と事務長はもう一度いって、葉子の大きな目をまじまじと見入ってからその視線をたどって、しばらく写真を見分けていたが、
 「はああれか。あれはねわたしの妻子ですんだ。荊妻《けいさい》と豚児《とんじ》どもですよ」
 といって高々と笑いかけたが、ふと笑いやんで、険しい目で葉子をちらっと見た。
 「まあそう。ちゃんとお写真をお飾りなすって、おやさしゅうござんすわね」
 葉子はしんなり[#「しんなり」に傍点]と立ち上がってその写真の前に行った。物珍しいものを見るという様子をしてはいたけれども、心の中には自分の敵がどんな獣物《けだもの》であるかを見きわめてやるぞという激しい敵愾心《てきがいしん》が急に燃えあがっていた。前には芸者ででもあったのか、それとも良人《おっと》の心を迎えるためにそう造ったのか、どこか玄人《くろうと》じみたきれいな丸髷《まるまげ》の女が着飾って、三人の少女を膝《ひざ》に抱いたりそばに立たせたりして写っていた。葉子はそれを取り上げて孔《あな》のあくほどじっ[#「じっ」に傍点]と見やりながらテーブルの前に立っていた。ぎこちない沈黙がしばらくそこに続いた。
 「お葉さん」(事務長は始めて葉子をその姓で呼ばずにこう呼びかけた)突然震えを帯びた、低い、重い声が焼きつくように耳近く聞こえたと思うと、葉子は倉地の大きな胸と太い腕とで身動きもできないように抱きすくめられていた。もとより葉子はその朝倉地が野獣のような assault に出る事を直覚的に覚悟して、むしろそれを期待して、その assault を、心ばかりでなく、肉体的な好奇心をもって待ち受けていたのだったが、かくまで突然、なんの前ぶれもなく起こって来ようとは思いも設けなかったので、女の本然の羞恥《しゅうち》から起こる貞操の防衛に駆られて、熱しきったような冷えきったような血を一時に体内に感じながら、かかえられたまま、侮蔑《ぶべつ》をきわめた表情を二つの目に集めて、倉地の顔を斜めに見返した。その冷ややかな目の光は仮初《かりそ》めの男の心をたじろがすはずだった。事務長の顔は振り返った葉子の顔に息気《いき》のかかるほどの近さで、葉子を見入っていたが、葉子が与えた冷酷なひとみには目もくれぬまで狂わしく熱していた。(葉子の感情を最も強くあおり立てるものは寝床を離れた朝の男の顔だった。一夜の休息にすべての精気を充分回復した健康な男の容貌《ようぼう》の中には、女の持つすべてのものを投げ入れても惜しくないと思うほどの力がこもっていると葉子は始終感ずるのだった)葉
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