恐れながらもどこまでもついて行こうとした。どんな事があっても自分がその中心になっていて、先方《むこう》をひき付けてやろう。自分をはぐらかすような事はしまいと始終張り切ってばかりいたこれまでの心持ちと、この時わくがごとく持ち上がって来た心持ちとは比べものにならなかった。あらん限りの重荷を洗いざらい思いきりよく投げすててしまって、身も心も何か大きな力に任しきるその快さ心安さは葉子をすっかり夢心地《ゆめごこち》にした。そんな心持ちの相違を比べて見る事さえできないくらいだった。葉子は子供らしい期待に目を輝かして岡の帰って来るのを待っていた。
「だめですよ。床の中にいて戸も明けてくれずに、寝言《ねごと》みたいな事をいってるんですもの」
といいながら岡は当惑顔で葉子のそばに現われた。
「あなたこそだめね。ようござんすわ、わたしが自分で行って見てやるから」
葉子にはそこにいる岡さえなかった。少し怪訝《けげん》そうに葉子のいつになくそわそわした様子を見守る青年をそこに捨ておいたまま葉子は険しく細い階子段《はしごだん》を降りた。
事務長の部屋《へや》は機関室と狭い暗い廊下一つを隔てた所にあって、日の目を見ていた葉子には手さぐりをして歩かねばならぬほど勝手がちがっていた。地震のように機械の震動が廊下の鉄壁に伝わって来て、むせ返りそうな生《なま》暖かい蒸気のにおいと共に人を不愉快にした。葉子は鋸屑《おがくず》を塗りこめてざらざらと手ざわりのいやな壁をなでて進みながらようやく事務室の戸の前に来て、あたりを見回して見て、ノックもせずにいきなりハンドルをひねった。ノックをするひまもないようなせかせか[#「せかせか」に傍点]した気分になっていた。戸は音も立てずにやすやすとあいた。「戸もあけてくれずに……」との岡の言葉から、てっきり[#「てっきり」に傍点]鍵《かぎ》がかかっていると思っていた葉子にはそれが意外でもあり、あたりまえにも思えた。しかしその瞬間には葉子はわれ知らずはっ[#「はっ」に傍点]となった。ただ通りすがりの人にでも見付けられまいとする心が先に立って、葉子は前後のわきまえもなく、ほとんど無意識に部屋《へや》にはいると、同時にぱたん[#「ぱたん」に傍点]と音をさせて戸をしめてしまった。
もうすべては後悔にはおそすぎた。岡の声で今寝床から起き上がったらしい事務長は、荒い棒縞《ぼうじま》のネルの筒袖《つつそで》一枚を着たままで、目のはれぼったい顔をして、小山のような大きな五体を寝床にくねらして、突然はいって来た葉子をぎっ[#「ぎっ」に傍点]と見守っていた。とうの昔に心の中は見とおしきっているような、それでいて言葉もろくろくかわさないほどに無頓着《むとんじゃく》に見える男の前に立って、葉子はさすがにしばらくはいい出《い》づべき言葉もなかった。あせる気を押し鎮《しず》め押ししずめ、顔色を動かさないだけの沈着を持ち続けようとつとめたが、今までに覚えない惑乱のために、頭はぐら[#「ぐら」に傍点]ぐらとなって、無意味だと自分でさえ思われるような微笑をもらす愚かさをどうする事もできなかった。倉地は葉子がその朝その部屋《へや》に来るのを前からちゃん[#「ちゃん」に傍点]と知り抜いてでもいたように落ち付き払って、朝の挨拶《あいさつ》もせずに、
「さ、おかけなさい。ここが楽《らく》だ」
といつものとおりな少し見おろした親しみのある言葉をかけて、昼間は長椅子《ながいす》がわりに使う寝台の座を少し譲って待っている。葉子は敵意を含んでさえ見える様子で立ったまま、
「何か御用がおありになるそうでございますが……」
固くなりながらいって、あゝまた見えすく事をいってしまったとすぐ後悔した。事務長は葉子の言葉を追いかけるように、
「用はあとでいいます。まあおかけなさい」
といってすましていた。その言葉を聞くと、葉子はそのいいなり放題になるよりしかたがなかった。「お前は結局はここにすわるようになるんだよ」と事務長は言葉の裏に未来を予知しきっているのが葉子の心を一種捨てばちなものにした。「すわってやるものか」という習慣的な男に対する反抗心はただわけもなくひしがれていた。葉子はつか[#「つか」に傍点]つかと進みよって事務長と押し並んで寝台に腰かけてしまった。
この一つの挙動が――このなんでもない一つの挙動が急に葉子の心を軽くしてくれた。葉子はその瞬間に大急ぎで今まで失いかけていたものを自分のほうにたぐり戻《もど》した。そして事務長を流し目に見やって、ちょっとほほえんだその微笑には、さっきの微笑の愚かしさが潜んでいないのを信ずる事ができた。葉子の性格の深みからわき出るおそろしい自然さがまとまった姿を現わし始めた。
「何御用でいらっしゃいます」
そのわざとらしい
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