名を呼ばれた事はないようにさえ思った。「葉子」という名にきわ立って伝奇的な色彩が添えられたようにも聞こえた。で、葉子はわざと木村と握り合わせた手に力をこめて、さらになんとか言葉をつがせてみたくなった。その目も木村の口びるに励ましを与えていた。木村は急に弁力を回復して、
「一日千秋の思いとはこの事です」
とすらすらとなめらかにいってのけた。それを聞くと葉子はみごと期待に背負投《しょいな》げをくわされて、その場の滑稽《こっけい》に思わずふき出そうとしたが、いかに事務長に対する恋におぼれきった女心の残虐さからも、さすがに木村の他意ない誠実を笑いきる事は得《え》しないで、葉子はただ心の中で失望したように「あれだからいやになっちまう」とくさくさしながら喞《かこ》った。
しかしこの場合、木村と同様、葉子も格好な空気を部屋の中に作る事に当惑せずにはいられなかった。事務長と別れて自分の部屋に閉じこもってから、心静かに考えて置こうとした木村に対する善後策も、思いよらぬ感情の狂いからそのままになってしまって、今になってみると、葉子はどう木村をもてあつかっていいのか、はっきりした目論見《もくろみ》はできていなかった。しかし考えてみると、木部|孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、191−17]《こきょう》と別れた時でも、葉子には格別これという謀略があったわけではなく、ただその時々にわがままを振る舞ったに過ぎなかったのだけれども、その結果は葉子が何か恐ろしく深い企《たくら》みと手練《てくだ》を示したかのように人に取られていた事も思った。なんとかして漕《こ》ぎ抜けられない事はあるまい。そう思って、まず落ち付き払って木村に椅子《いす》をすすめた。木村が手近にある畳み椅子を取り上げて寝台のそばに来てすわると、葉子はまたしなやかな手を木村の膝《ひざ》の上において、男の顔をしげしげと見やりながら、
「ほんとうにしばらくでしたわね。少しおやつれになったようですわ」
といってみた。木村は自分の感情に打ち負かされて身を震わしていた。そしてわくわくと流れ出る涙が見る見る目からあふれて、顔を伝って幾筋となく流れ落ちた。葉子は、その涙の一しずくが気まぐれにも、うつむいた男の鼻の先に宿って、落ちそうで落ちないのを見やっていた。
「ずいぶんいろいろと苦労なすったろうと思って、気が気ではなかっ
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