らにすり寄った。
 「いゝえいゝえ泣いてらっしゃいましたわ」
 岡は途方に暮れたように目の下の海をながめていたが、のがれる術《すべ》のないのを覚《さと》って、大っぴらにハンケチをズボンのポケットから出して目をぬぐった。そして少し恨むような目つきをして、始めてまとも[#「まとも」に傍点]に葉子を見た。口びるまでが苺《いちご》のように紅《あか》くなっていた。青白い皮膚に嵌《は》め込まれたその紅《あか》さを、色彩に敏感な葉子は見のがす事ができなかった。岡は何かしら非常に興奮していた。その興奮してぶるぶる震えるしなやかな手を葉子は手欄《てすり》ごとじっ[#「じっ」に傍点]と押えた。
 「さ、これでおふき遊ばせ」
 葉子の袂《たもと》からは美しい香《かお》りのこもった小さなリンネルのハンケチが取り出された。
 「持ってるんですから」
 岡は恐縮したように自分のハンケチを顧みた。
 「何をお泣きになって……まあわたしったらよけいな事まで伺って」
 「何いいんです……ただ海を見たらなんとなく涙ぐんでしまったんです。からだが弱いもんですからくだらない事にまで感傷的になって困ります。……なんでもない……」
 葉子はいかにも同情するように合点合点した。岡が葉子とこうして一緒にいるのをひどくうれしがっているのが葉子にはよく知れた。葉子はやがて自分のハンケチを手欄《てすり》の上においたまま、
 「わたしの部屋《へや》へもよろしかったらいらっしゃいまし。またゆっくりお話ししましょうね」
 となつこくいってそこを去った。
 岡は決して葉子の部屋を訪れる事はしなかったけれども、この事のあって後は、二人《ふたり》はよく親しく話し合った。岡は人なじみの悪い、話の種《たね》のない、ごく初心《うぶ》な世慣れない青年だったけれども、葉子はわずかなタクトですぐ隔てを取り去ってしまった。そして打ち解けて見ると彼は上品な、どこまでも純粋な、そして慧《さ》かしい青年だった。若い女性にはそのはにかみや[#「はにかみや」に傍点]な所から今まで絶えて接していなかったので、葉子にはすがり付くように親しんで来た。葉子も同性の恋をするような気持ちで岡をかわいがった。
 そのころからだ、事務長が岡に近づくようになったのは。岡は葉子と話をしない時はいつでも事務長と散歩などをしていた。しかし事務長の親友とも思われる二三の船客に対し
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