士の船室には夜おそくまで灯《ひ》がかがやいて、夫人の興ありげに高く笑う声が室外まで聞こえる事が珍しくなかった。
葉子は田川夫人のこんな仕打ちを受けても、心の中で冷笑《あざわら》っているのみだった。すでに自分が勝ち味になっているという自覚は、葉子に反動的な寛大な心を与えて、夫人が事務長を※[#「※」は「てへんに虜」、132−2]《とりこ》にしようとしている事などはてんで問題にはしまいとした。夫人はよけいな見当違いをして、痛くもない腹を探っている、事務長がどうしたというのだ。母の胎《はら》を出るとそのままなんの訓練も受けずに育ち上がったようなぶしつけ[#「ぶしつけ」に傍点]な、動物性の勝った、どんな事をして来たのか、どんな事をするのかわからないようなたかが事務長になんの興味があるものか。あんな人間に気を引かれるくらいなら、自分はとうに喜んで木村の愛になずいているのだ。見当違いもいいかげんにするがいい。そう歯がみをしたいくらいな気分で思った。
ある夕方葉子はいつものとおり散歩しようと甲板《かんぱん》に出て見ると、はるか遠い手欄《てすり》の所に岡がたった一人《ひとり》しょんぼりとよりかかって、海を見入っていた。葉子はいたずら者らしくそっ[#「そっ」に傍点]と足音を盗んで、忍び忍び近づいて、いきなり岡と肩をすり合わせるようにして立った。岡は不意に人が現われたので非常に驚いたふうで、顔をそむけてその場を立ち去ろうとするのを、葉子は否応《いやおう》なしに手を握って引き留めた。岡が逃げ隠れようとするのも道理、その顔には涙のあとがまざまざと残っていた。少年から青年になったばかりのような、内気らしい、小柄《こがら》な岡の姿は、何もかも荒々しい船の中ではことさらデリケートな可憐《かれん》なものに見えた。葉子はいたずらばかりでなく、この青年に一種の淡々《あわあわ》しい愛を覚えた。
「何を泣いてらしったの」
小首を存分傾けて、少女が少女に物を尋ねるように、肩に手を置きそえながら聞いてみた。
「僕……泣いていやしません」
岡は両方の頬《ほお》を紅《あか》く彩《いろど》って、こういいながらくるり[#「くるり」に傍点]とからだをそっぽう[#「そっぽう」に傍点]に向け換えようとした。それがどうしても少女のようなしぐさだった。抱きしめてやりたいようなその肉体と、肉体につつまれた心。葉子はさ
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