あらわには知れないながら、何かさびしい過去を持つらしい、妖艶《ようえん》な、若い葉子の一挙一動を、絶えず興味深くじっ[#「じっ」に傍点]と見守るように見えた。
 かの奇怪な心の動乱の一夜を過ごすと、その翌日から葉子はまたふだんのとおりに、いかにも足もとがあやうく見えながら少しも破綻《はたん》を示さず、ややもすれば他人の勝手になりそうでいて、よそからは決して動かされない女になっていた。始めて食堂に出た時のつつましやかさに引きかえて、時には快活な少女のように晴れやかな顔つきをして、船客らと言葉をかわしたりした。食堂に現われる時の葉子の服装だけでも、退屈に倦《うん》じ果てた人々には、物好きな期待を与えた。ある時は葉子は慎み深い深窓《しんそう》の婦人らしく上品に、ある時は素養の深い若いディレッタントのように高尚《こうしょう》に、またある時は習俗から解放された adventuress とも思われる放胆を示した。その極端な変化が一日の中に起こって来ても、人々はさして怪しく思わなかった。それほど葉子の性格には複雑なものが潜んでいるのを感じさせた。絵島丸が横浜の桟橋につながれている間から、人々の注意の中心となっていた田川夫人を、海気にあって息気《いき》をふき返した人魚のような葉子のかたわらにおいて見ると、身分、閲歴、学殖、年齢などといういかめしい資格が、かえって夫人を固い古ぼけた輪郭にはめこんで見せる結果になって、ただ神体のない空虚な宮殿のような空《そら》いかめしい興なさを感じさせるばかりだった。女の本能の鋭さから田川夫人はすぐそれを感づいたらしかった。夫人の耳もとに響いて来るのは葉子のうわさばかりで、夫人自身の評判は見る見る薄れて行った。ともすると田川|博士《はかせ》までが、夫人の存在を忘れたような振る舞いをする、そう夫人を思わせる事があるらしかった。食堂の卓をはさんで向かい合う夫妻が他人同士のような顔をして互い互いにぬすみ見をするのを葉子がすばやく見て取った事などもあった。といって今まで自分の子供でもあしらうように振る舞っていた葉子に対して、今さら夫人は改まった態度も取りかねていた。よくも仮面をかぶって人を陥れたという女らしいひねくれ[#「ひねくれ」に傍点]た妬《ねた》みひがみが、明らかに夫人の表情に読まれ出した。しかし実際の処置としては、くやしくても虫を殺して、自分を葉子まで
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