ゴの大学にでもいらっしゃいますの」
 岡は非常にあわてたようだった。なんと返事をしたものか恐ろしくためらうふうだったが、やがてあいまいに口の中で、
 「えゝ」
 とだけつぶやいて黙ってしまった。そのおぼこさ……葉子は闇《やみ》の中で目をかがやかしてほほえんだ。そして岡をあわれんだ。
 しかし青年をあわれむと同時に葉子の目は稲妻のように事務長の後ろ姿を斜めにかすめた。青年をあわれむ自分は事務長にあわれまれているのではないか。始終一歩ずつ上手《うわて》を行くような事務長が一種の憎しみをもってながめやられた。かつて味わった事のないこの憎しみの心を葉子はどうする事もできなかった。
 二人《ふたり》に別れて自分の船室に帰った葉子はほとんど delirium の状態にあった。眼睛《ひとみ》は大きく開いたままで、盲目《めくら》同様に部屋《へや》の中の物を見る事をしなかった。冷えきった手先はおどおどと両の袂《たもと》をつかんだり離したりしていた。葉子は夢中でショールとボアとをかなぐり捨て、もどかしげに帯だけほどくと、髪も解かずに寝台の上に倒れかかって、横になったまま羽根|枕《まくら》を両手でひし[#「ひし」に傍点]と抱いて顔を伏せた。なぜと知らぬ涙がその時|堰《せき》を切ったように流れ出した。そして涙はあとからあとからみなぎるようにシーツを湿《うるお》しながら、充血した口びるは恐ろしい笑いをたたえてわなわなと震えていた。
 一時間ほどそうしているうちに泣き疲れに疲れて、葉子はかけるものもかけずにそのまま深い眠りに陥って行った。けばけばしい電燈の光はその翌日の朝までこのなまめかしくもふしだらな葉子の丸寝姿《まるねすがた》を画《か》いたように照らしていた。

    一四

 なんといっても船旅は単調だった。たとい日々夜々に一瞬もやむ事なく姿を変える海の波と空の雲とはあっても、詩人でもないなべての船客は、それらに対して途方に暮れた倦怠《けんたい》の視線を投げるばかりだった。地上の生活からすっかり[#「すっかり」に傍点]遮断《しゃだん》された船の中には、ごく小さな事でも目新しい事件の起こる事のみが待ち設けられていた。そうした生活では葉子が自然に船客の注意の焦点となり、話題の提供者となったのは不思議もない。毎日毎日凍りつくような濃霧の間を、東へ東へと心細く走り続ける小さな汽船の中の社会は、
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