たためか、だんだん嘔《は》き気《け》は感ぜぬようになった。田川夫妻は自然に葉子を会話からのけものにして、二人の間で四方山《よもやま》のうわさ話を取りかわし始めた。不思議なほどに緊張した葉子の心は、それらの世間話にはいささかの興味も持ち得ないで、むしろその無意味に近い言葉の数々を、自分の瞑想《めいそう》を妨げる騒音のようにうるさく思っていた。と、ふと田川夫人が事務長と言ったのを小耳にはさんで、思わず針でも踏みつけたようにぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として、黙想から取って返して聞き耳を立てた。自分でも驚くほど神経が騒ぎ立つのをどうする事もできなかった。
「ずいぶんしたたか者らしゅうございますわね」
そう夫人のいう声がした。
「そうらしいね」
博士《はかせ》の声には笑いがまじっていた。
「賭博《ばくち》が大の上手《じょうず》ですって」
「そうかねえ」
事務長の話はそれぎりで絶えてしまった。葉子はなんとなく物足らなくなって、また何かいい出すだろうと心待ちにしていたが、その先を続ける様子がないので、心残りを覚えながら、また自分の心に帰って行った。
しばらくすると夫人がまた事務長のうわさをし始めた。
「事務長のそばにすわって食事をするのはどうもいやでなりませんの」
「そんなら早月《さつき》さんに席を代わってもらったらいいでしょう」
葉子は闇《やみ》の中で鋭く目をかがやかしながら夫人の様子をうかがった。
「でも夫婦がテーブルにならぶって法はありませんわ……ねえ早月さん」
こう戯談《じょうだん》らしく夫人はいって、ちょっと葉子のほうを振り向いて笑ったが、べつにその返事を待つというでもなく、始めて葉子の存在に気づきでもしたように、いろいろと身の上などを探りを入れるらしく聞き始めた。田川博士も時々親切らしい言葉を添えた。葉子は始めのうちこそつつましやかに事実にさほど遠くない返事をしていたものの、話がだんだん深入りして行くにつれて、田川夫人という人は上流の貴夫人だと自分でも思っているらしいに似合わない思いやりのない人だと思い出した。それはあり内《うち》の質問だったかもしれない。けれども葉子にはそう思えた。縁もゆかりもない人の前で思うままな侮辱を加えられるとむっ[#「むっ」に傍点]とせずにはいられなかった。知った所がなんにもならない話を、木村の事まで根はり葉はり問
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