なんだ。命なんです」
 といううちにも、その目からはほろほろと煮えるような涙が流れて、まだうら若いなめらかな頬《ほお》を伝った。膝《ひざ》から下がふらつくのを葉子にすがって危うくささえながら、
 「結婚をなさるんですか……おめでとう……おめでとう……だがあなたが日本にいなくなると思うと……いたたまれないほど心細いんだ……わたしは……」
 もう声さえ続かなかった。そして深々と息気《いき》をひいてしゃくり上げながら、葉子の肩に顔を伏せてさめざめと男泣きに泣き出した。
 この不意な出来事はさすがに葉子を驚かしもし、きまりも悪くさせた。だれだとも、いつどこであったとも思い出す由がない。木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、82−8]《きべこきょう》と別れてから、何という事なしに捨てばちな心地《ここち》になって、だれかれの差別もなく近寄って来る男たちに対して勝手気ままを振る舞ったその間に、偶然に出あって偶然に別れた人の中の一人《ひとり》でもあろうか。浅い心でもてあそんで行った心の中にこの男の心もあったであろうか。とにかく葉子には少しも思い当たる節《ふし》がなかった。葉子はその男から離れたい一心に、手に持った手鞄《てかばん》と包み物とを甲板の上にほうりなげて、若者の手をやさしく振りほどこうとして見たが無益だった。親類や朋輩《ほうばい》たちの事あれがしな目が等しく葉子に注がれているのを葉子は痛いほど身に感じていた。と同時に、男の涙が薄い単衣《ひとえ》の目を透《とお》して、葉子の膚にしみこんで来るのを感じた。乱れたつやつやしい髪のにおいもつい鼻の先で葉子の心を動かそうとした。恥も外聞も忘れ果てて、大空の下ですすり泣く男の姿を見ていると、そこにはかすかな誇りのような気持ちがわいて来た。不思議な憎しみといとしさがこんがらかって葉子の心の中で渦巻《うずま》いた。葉子は、
 「さ、もう放してくださいまし、船が出ますから」
 ときびしくいって置いて、かんで含めるように、
 「だれでも生きてる間は心細く暮らすんですのよ」
 とその耳もとにささやいて見た。若者はよくわかったというふうに深々とうなずいた。しかし葉子を抱く手はきびしく震えこそすれ、ゆるみそうな様子は少しも見えなかった。
 物々しい銅鑼《どら》の響きは左舷から右舷に回って、また船首のほうに聞こえて行こうとしていた。船員
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