かさ》にかかりながら、それでいて良人から独立する事の到底できない、いわば心《しん》の弱い強がり家《や》ではないかしらんというのだった。葉子は今後ろ向きになった田川夫人の肩の様子を一目見たばかりで、辞書でも繰り当てたように、自分の想像の裏書きをされたのを胸の中でほほえまずにはいられなかった。
 「なんだか話が混雑したようだけれども、それだけいって置いてください」
 ふと葉子は幻想《レェリー》から破れて、古藤のいうこれだけの言葉を捕えた。そして今まで古藤の口から出た伝言の文句はたいてい聞きもらしていたくせに、空々《そらぞら》しげにもなくしんみり[#「しんみり」に傍点]とした様子で、
 「確かに……けれどもあなたあとから手紙ででも詳しく書いてやってくださいましね。間違いでもしているとたいへんですから」
 と古藤をのぞき込むようにしていった。古藤は思わず笑いをもらしながら、「間違うとたいへんですから」という言葉を、時おり葉子の口から聞くチャームに満ちた子供らしい言葉の一つとでも思っているらしかった。そして、
 「何、間違ったって大事はないけれども……だが手紙は書いて、あなたの寝床《バース》の枕《まくら》の下に置いときましたから、部屋《へや》に行ったらどこにでもしまっておいてください。それから、それと一緒にもう一つ……」
 といいかけたが、
 「何しろ忘れずに枕の下を見てください」
 この時突然「田川法学|博士《はかせ》万歳」という大きな声が、桟橋《さんばし》からデッキまでどよみ渡って聞こえて来た。葉子と古藤とは話の腰を折られて互いに不快な顔をしながら、手欄《てすり》から下のほうをのぞいて見ると、すぐ目の下に、そのころ人の少し集まる所にはどこにでも顔を出す轟《とどろき》という剣舞の師匠だか撃剣の師匠だかする頑丈《がんじょう》な男が、大きな五つ紋の黒羽織《くろばおり》に白っぽい鰹魚縞《かつおじま》の袴《はかま》をはいて、桟橋の板を朴《ほお》の木下駄《きげた》で踏み鳴らしながら、ここを先途《せんど》とわめいていた。その声に応じて、デッキまではのぼって来ない壮士|体《てい》の政客や某私立政治学校の生徒が一斉《いっせい》に万歳を繰り返した。デッキの上の外国船客は物珍しさにいち早く、葉子がよりかかっている手欄《てすり》のほうに押し寄せて来たので、葉子は古藤を促して、急いで手欄の折れ曲が
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