]こつとたたいて、うつむいてそれをながめながら、帯の間に手をさし込んで、木村への伝言を古藤はひとり言《ごと》のように葉子にいった。葉子はそれに耳を傾けるような様子はしていたけれども、ほんとうはさして注意もせずに、ちょうど自分の目の前に、たくさんの見送り人に囲まれて、応接に暇《いとま》もなげな田川法学|博士《はかせ》の目じりの下がった顔と、その夫人のやせぎすな肩との描く微細な感情の表現を、批評家のような心で鋭くながめやっていた。かなり広いプロメネード・デッキは田川家の家族と見送り人とで縁日のようににぎわっていた。葉子の見送りに来たはずの五十川《いそがわ》女史は先刻から田川夫人のそばに付ききって、世話好きな、人のよい叔母《おば》さんというような態度で、見送り人の半分がたを自身で引き受けて挨拶《あいさつ》していた。葉子のほうへは見向こうとする模様もなかった。葉子の叔母は葉子から二三|間《げん》離れた所に、蜘蛛《くも》のような白痴の子を小婢《こおんな》に背負わして、自分は葉子から預かった手鞄《てかばん》と袱紗《ふくさ》包みとを取り落とさんばかりにぶら下げたまま、花々しい田川家の家族や見送り人の群れを見てあっけに取られていた。葉子の乳母《うば》は、どんな大きな船でも船は船だというようにひどく臆病《おくびょう》そうな青い顔つきをして、サルンの入り口の戸の陰にたたずみながら、四角にたたんだ手ぬぐいをまっ赤《か》になった目の所に絶えず押しあてては、ぬすみ見るように葉子を見やっていた。その他の人々はじみ[#「じみ」に傍点]な一団になって、田川家の威光に圧せられたようにすみのほうにかたまっていた。
 葉子はかねて五十川女史から、田川夫婦が同船するから船の中で紹介してやるといい聞かせられていた。田川といえば、法曹界《ほうそうかい》ではかなり名の聞こえた割合に、どこといって取りとめた特色もない政客ではあるが、その人の名はむしろ夫人のうわさのために世人の記憶にあざやかであった。感受力の鋭敏なそしてなんらかの意味で自分の敵に回さなければならない人に対してことに注意深い葉子の頭には、その夫人の面影《おもかげ》は長い事宿題として考えられていた。葉子の頭に描かれた夫人は我《が》の強い、情の恣《ほしい》ままな、野心の深い割合に手練《タクト》の露骨《ろこつ》な、良人《おっと》を軽く見てややともすると笠《
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