えりもと》を掴《つか》んで引きおこした。ぞろぞろと華やかな着物だけが宙につるし上って、肝腎《かんじん》のフランシスは溶けたのか消えたのか、影も形もなくなっていた。クララは恐ろしい衝動を感じてそれを見ていた。と、やがてその男の手に残った着物が二つに分れて一つはクララの父となり、一つは母となった。そして二人の間に立つその男は、クララの許婚《いいなずけ》のオッタヴィアナ・フォルテブラッチョだった。三人はクララの立っている美しい芝生より一段低い沼地がかった黒土《くろつち》の上に単調にずらっ[#「ずらっ」に傍点]とならんで立っていた――父は脅《おびや》かすように、母は歎くように、男は怨《うら》むように。戦《たたかい》の街《ちまた》を幾度もくぐったらしい、日に焼けて男性的なオッタヴィアナの顔は、飽く事なき功名心と、強い意志と、生一本《きいっぽん》な気象とで、固い輪郭《りんかく》を描いていた。そしてその上を貴族的な誇りが包んでいた。今まで誰れの前にも弱味を見せなかったらしいその顔が、恨みを含んでじっとクララを見入っていた。クララは許婚の仲であるくせに、そしてこの青年の男らしい強さを尊敬しているくせに、その愛をおとなしく受けようとはしなかったのだ。クララは夢の中にありながら生れ落ちるとから神に献《ささ》げられていたような不思議な自分の運命を思いやった。晩《おそ》かれ早かれ生みの親を離れて行くべき身の上も考えた。見ると三人は自分の方に手を延ばしている。そしてその足は黒土の中にじりじりと沈みこんで行く。脅かすような父の顔も、歎くような母の顔も、怨むようなオッタヴィアナの顔も見る見る変って、眼に逼《せま》る難儀を救ってくれと、恥も忘れて叫ばんばかりにゆがめた口を開いている。しかし三人とも声は立てずに死のように静かで陰鬱《いんうつ》だった。クララは芝生の上からそれをただ眺めてはいられなかった。口まで泥の中に埋まって、涙を一ぱいためス眼でじっ[#「じっ」に傍点]とクララに物をいおうとする三人の顔の外《ほか》に、果てしのないその泥の沼には多くの男女の頭が静かに沈んで行きつつあるのだ。頭が沈みこむとぬるり[#「ぬるり」に傍点]と四方からその跡を埋めに流れ寄る泥の動揺は身の毛をよだてた。クララは何もかも忘れて三人を救うために泥の中に片足を入れようとした。
その瞬間に彼女は真黄《まっきい》に照り輝く光の中に投げ出された。芝生も泥の海ももうそこにはなかった。クララは眼がくらみながらも起き上がろうともがい[#「もがい」に傍点]た。クララの胸を掴んで起させないものがあった。クララはそれが天使ガブリエルである事を知った。「天国に嫁《とつ》ぐためにお前は浄《きよ》められるのだ」そういう声が聞こえたと思った。同時にガブリエルは爛々《らんらん》と燃える炎の剣をクララの乳房の間からずぶり[#「ずぶり」に傍点]とさし通した。燃えさかった尖頭《きっさき》は下腹部まで届いた。クララは苦悶の中《うち》に眼をあげてあたりを見た。まぶしい光に明滅して十字架にかかった基督《キリスト》の姿が厳かに見やられた。クララは有頂天になった。全身はかつて覚えのない苦しい快い感覚に木の葉の如《ごと》くおののいた。喉《のど》も裂け破れる一声に、全身にはり満ちた力を搾《しぼ》り切ろうとするような瞬間が来た。その瞬間にクララの夢はさめた。
クララはアグネスの眼をさまさないようにそっ[#「そっ」に傍点]と起き上って窓から外を見た。眼の下には夢で見たとおりのルフィノ寺院が暁闇《あかつきやみ》の中に厳かな姿を見せていた。クララは扉《とびら》をあけて柔かい春の空気を快く吸い入れた。やがてポルタ・カプチイニの方にかすかな東明《しののめ》の光が漏れたと思うと、救世主のエルサレム入城を記念する寺の鐘が一時に鳴り出した。快活な同じ鐘の音は、麓《ふもと》の町からも聞こえて来た、牡鶏《おんどり》が村から村に時鳴《とき》を啼《な》き交すように。
今日こそは出家して基督《キリスト》に嫁ぐべき日だ。その朝の浅い眠りを覚ました不思議な夢も、思い入った心には神の御告げに違いなかった。クララは涙ぐましい、しめやかな心になってアグネスを見た。十四の少女は神のように眠りつづけていた。
部屋は静かだった。
○
クララは父母や妹たちより少しおくれて、朝の礼拝《れいはい》に聖《サン》ルフィノ寺院に出かけて行った。在家《ざいけ》の生活の最後の日だと思うと、さすがに名残が惜しまれて、彼女は心を凝らして化粧をした。「クララの光りの髪」とアッシジで歌われたその髪を、真珠紐《しんじゅひも》で編んで後ろに垂れ、ベネチヤの純白な絹を着た。家の者のいない隙《すき》に、手早く置手紙と形見の品物を取りまとめて机の引出しにしまった。クララの眼に
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