。両肱は自分の部屋の窓枠に、両膝は使いなれた樫《かし》の長椅子《ながいす》の上に乗っていた。彼女の髪は童女の習慣どおり、侍童《ページ》のように、肩あたりまでの長さに切下《きりさげ》にしてあった。窓からは、朧夜《おぼろよ》の月の光の下に、この町の堂母《ドーモ》なるサン・ルフィノ寺院とその前の広場とが、滑かな陽春の空気に柔らめられて、夢のように見渡された。寺院の北側をロッカ・マジョーレの方に登る阪《さか》を、一つの集団となってよろけながら、十五、六人の華車《きゃしゃ》な青年が、声をかぎりに青春を讃美する歌をうたって行くのだった。クララはこの光景を窓から見おろすと、夢の中にありながら、これは前に一度目撃した事があるのにと思っていた。
 そう思うと、同時に窓の下の出来事はずんずんクララの思う通りにはかどって行った。

  夏には夏の我れを待て。
  春には春の我れを待て。
  夏には隼《たか》を腕に据えよ。
  春には花に口を触れよ。
  春なり今は。春なり我れは。
  春なり我れは。春なり今は。
  我がめぐわしき少女《おとめ》。
  春なる、ああ、この我れぞ春なる。

 寝しずまった町並《まちなみ》を、張りのある男声の合唱が鳴りひびくと、無頓着《むとんじゃく》な無恥な高笑いがそれに続いた。あの青年たちはもう立止る頃だとクララが思うと、その通りに彼らは突然阪の中途で足をとめた。互に何か探し合っているようだったが、やがて彼らは広場の方に、「フランシス」「ベルナルドーネの若い騎士」「円卓子《パンサ・ロトンダ》の盟主」などと声々に叫び立てながら、はぐれた伴侶《なかま》を探しにもどって来た。彼らは広場の手前まで来た。そして彼らの方に二十二、三に見える一人の青年が夢遊病者のように足もともしどろ[#「しどろ」に傍点]に歩いて来るのを見つけた。クララも月影でその青年を見た。それはコルソの往還を一つへだてたすぐ向うに住むベルナルドーネ家のフランシスだった。華美を極めた晴着の上に定紋《じょうもん》をうった蝦茶《えびちゃ》のマントを着て、飲み仲間の主権者たる事を現わす笏《しゃく》を右手に握った様子は、ほかの青年たちにまさった無頼《ぶらい》の風俗だったが、その顔は痩《や》せ衰えて物凄いほど青く、眼は足もとから二、三間さきの石畳を孔《あな》のあくほど見入ったまま瞬《またた》きもしなかった。そしてよろけるような足どりで、見えないものに引ずられながら、堂母《ドーモ》の広場の方に近づいて来た。それを見つけると、引返して来た青年たちは一度にとき[#「とき」に傍点]をつくって駈《か》けよりざまにフランシスを取かこんだ。「フランシス」「若い騎士」などとその肩まで揺《ゆす》って呼びかけても、フランシスは恐《おそろ》しげな夢からさめる様子はなかった。青年たちはそのていたらく[#「ていたらく」に傍点]にまたどっと高笑いをした。「新妻《にいづま》の事でも想像して魂がもぬけたな」一人がフランシスの耳に口をよせて叫んだ。フランシスはついた狐《きつね》が落ちたようにきょとん[#「きょとん」に傍点]として、石畳から眼をはなして、自分を囲むいくつかの酒にほてった若い笑顔を苦々しげに見廻わした。クララは即興詩でも聞くように興味を催《もよ》おして、窓から上体を乗出しながらそれに眺め入った。フランシスはやがて自分の纏《まと》ったマントや手に持つ笏《しゃく》に気がつくと、甫《はじ》めて今まで耽《ふけ》っていた歓楽の想出《おもいで》の糸口が見つかったように苦笑いをした。
 「よく飲んで騒いだもんだ。そうだ、私は新妻の事を考えている。しかし私が貰《もら》おうとする妻は君らには想像も出来ないほど美しい、富裕な、純潔な少女なんだ」
 そういって彼れは笏を上げて青年たちに一足先きに行けと眼で合図した。青年たちが騒ぎ合いながら堂母《ドーモ》の蔭に隠れるのを見届けると、フランシスはいまいましげに笏を地に投げつけ、マントと晴着とをずたずたに破りすてた。
 次の瞬間にクララは錠のおりた堂母《ドーモ》の入口に身を投げかけて、犬のようにまろびながら、悔恨の涙にむせび泣く若いフランシスを見た。彼女は奇異の思いをしながらそれを眺めていた。春の月は朧《おぼ》ろに霞《かす》んでこの光景を初めからしまいまで照している。
 寺院の戸が開いた。寺院の内部は闇で、その闇は戸の外に溢れ出るかと思うほど濃かった。その闇の中から一人の男が現われた。十歳の童女から、いつの間にか、十八歳の今のクララになって、年に相当した長い髪を編下げにして寝衣《ねまき》を着たクララは、恐怖の予覚を持ちながらその男を見つめていた。男は入口にうずくまるフランシスに眼をつけると、きっ[#「きっ」に傍点]とクララの方に鋭い眸《ひとみ》を向けたが、フランシスの襟元《
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