いばかりではない、声を出す力さえなかった。そして跛脚《ちんば》をひきひきまた返って来た。
彼らは眠くなるほど疲れ果てながらまた三町ほど歩かねばならなかった。そこに下見囲《したみがこい》、板葺《いたぶき》の真四角な二階建が外《ほか》の家並を圧して立っていた。
妻が黙ったまま立留《たちどま》ったので、彼れはそれが松川農場の事務所である事を知った。ほんとうをいうと彼れは始めからこの建物がそれにちがいないと思っていたが、這入るのがいやなばかりに知らんふりをして通りぬけてしまったのだ。もう進退|窮《きわま》った。彼れは道の向側の立樹《たちき》の幹に馬を繋《つな》いで、燕麦《からすむぎ》と雑草とを切りこんだ亜麻袋を鞍輪《くらわ》からほどいて馬の口にあてがった。ぼりりぼりりという歯ぎれのいい音がすぐ聞こえ出した。彼れと妻とはまた道を横切って、事務所の入口の所まで来た。そこで二人は不安らしく顔を見合わせた。妻がぎごちなそうに手を挙げて髪をいじっている間に彼れは思い切って半分ガラスになっている引戸を開けた。滑車がけたたましい音をたてて鉄の溝を滑《すべ》った。がたぴしする戸ばかりをあつかい慣れている彼
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