て小作人に渡すのだから、農場としては小作料を回収する上にこれほど便利な事はない。小作料を払うまいと決心している仁右衛門は馬鹿な話だと思った。彼れは腹をきめた。そして競馬のために人の注意がおろそかになった機会を見すまして、商人と結托して、事務所へ廻わすべき燕麦をどんどん商人に渡してしまった。
 仁右衛門はこの取引をすましてから競馬場にやって来た。彼れは自分の馬で競走に加わるはずになっていたからだ。彼れは裸乗りの名人だった。
 自分の番が来ると彼れは鞍《くら》も置かずに自分の馬に乗って出て行った。人々はその馬を見ると敬意を払うように互にうなずき合って今年の糶《せり》では一番物だと賞《ほ》め合った。仁右衛門はそういう私語《ささやき》を聞くといい気持ちになって、いやでも勝って見せるぞと思った。六頭の馬がスタートに近づいた。さっと旗が降りた時仁右衛門はわざと出おくれた。彼れは外《ほか》の馬の跡から内埒《うちわ》へ内埒へとよって、少し手綱《たづな》を引きしめるようにして駈《か》けさした。ほてった彼の顔から耳にかけて埃《ほこり》を含んだ風が息気《いき》のつまるほどふきかかるのを彼れは快く思った。やが
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