彼れの顔の筋肉を一度気《いちどき》にひきしめてしまった。彼れは顔中の血が一時に頭の中に飛《と》び退《の》いたように思った。仁右衛門は酔いが一時に醒《さ》めてしまって馬力から飛び下りた。小屋の中にはまだ二、三人人がいた。妻はと見ると虫の息に弱った赤坊の側に蹲《うずくま》っておいおい泣いていた。笠井が例の古鞄《ふるかばん》を膝に引つけてその中から護符のようなものを取出していた。
「お、広岡さんええ所に帰ったぞな」
笠井が逸早《いちはや》く仁右衛門を見付けてこういうと、仁右衛門の妻は恐れるように怨《うら》むように訴えるように夫を見返って、黙ったまま泣き出した。仁右衛門はすぐ赤坊の所に行って見た。章魚《たこ》のような大きな頭だけが彼れの赤坊らしい唯《ただ》一つのものだった。たった半日の中《うち》にこうも変るかと疑われるまでにその小さな物は衰え細っていた。仁右衛門はそれを見ると腹が立つほど淋しく心許《こころもと》なくなった。今まで経験した事のないなつかしさ可愛さが焼くように心に逼《せま》って来た。彼れは持った事のないものを強いて押付けられたように当惑してしまった。その押付けられたものは恐ろし
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